立ち上がるおきぬ――藤乃かなが描く世界:新生真芸座『沓掛時次郎』@庄内天満座(5/7)

彼女は立ち上がる。懇親の力を振りしぼって。
彼女は立ち上がる。明確な意志をもって。
彼女は立ち上がる。一人の人間として。


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2022年の末日、今年の芝居を振り返ると、かなりバラエティ豊かな芝居に出会ったという感触がある。
ただ、私にとっての今年の不動の1位は、5月7日、GW遠征で巡り会えた、哀川昇座長率いる新生真芸座『沓掛時次郎』の藤乃かなさん演じるおきぬである。

「今年の芝居」という枠で役者を挙げるのはいかにもおかしいけれど、そういう矛盾を凌駕する圧倒的な「役としての実感」が、このかなさんのおきぬにはあった。

まずもう第一声目からしてすごかった。
夫・三蔵と荷造りをする、そのおきぬが「お前さん」とひと言声をかける。
こんな、なんてことない言葉ひとつで、敵の手下たちがすぐそこに迫るなか幼い子を連れた家族3人であてどなく逃げなければならない、不安、焦燥感、張りつめた空気、すべてが伝わってきた。

このおきぬの声を聴いた瞬間、今日はすごいものが観られる……!と私は確信した。

次に、おきぬと時次郎の出会いの場面。
三蔵と敵対する組に一宿一飯の恩義があった時次郎は、三蔵の侠客としての潔さを察知していながらも、その身に刃を下ろす。
それを家の内から見ていたおきぬが思わず飛び出て、時次郎に応戦しようとする。その二人の目が合った刹那、まなざしとまなざしの間に光線が飛び散るようだった。
「恋」なんて甘やかなものじゃない。「通じ合ってしまった」者同士の対峙。

かたわらにいる最愛の夫は虫の息で、まさにその夫を斬った敵と、出会った瞬間なにもかもわかりあえてしまう、なんてことあるんだろうか、と私だって思う。
でも、目の前でそれを見せられたのなら信じないわけにはいかない。

私は今までこの芝居を観てきて、おきぬと時次郎は生活をともにすることで徐々に惹かれあったと解釈していた。
けれど、このかなさんのおきぬと昇座長の時次郎を見ていて、もっと苛烈な、火打石に走る小さな炎のような、本当に運命的な関係だった、というふうにも捉えられることを知った。

そして、もっとも印象的だったのは、おきぬの最期。

病み伏したおきぬ、その命の灯が今にも消えようとするとき。彼女は時次郎の名を呼んで、すっくと立ちあがる。
ひと足、ふた足、進んだところで崩れ落ちるおきぬ。一子・太郎吉(哀川旺芸さん)はその骸に取りすがって泣き、そこに時次郎が駆け込んでくる。でも、おきぬの目が開くことはもうない。

おきぬはアウトラインだけ見れば、いかにもかそけき存在だ。
三下の夫との間に太郎吉をもうけ、なんとか生計を立ててるなか、夫も死に、その敵の渡世人との放浪生活を余儀なくされる。それもつかの間、おなかに亡き夫の忘れ形見を宿しつつも病の床につき、30になるかならずやで果てる。

大衆演劇のなかに出てくる女性は、「誰かの〇〇」と帰属先のほうがフューチャーされることが多い。
おきぬの場合も、三蔵の妻として、太郎吉の母として、時次郎の想い人としてという、あくまで受動態の存在として表出されることも多い。

けれど、かなさんのおきぬの、あの最期に見せたひと足、ふた足。自分の力で立ち上がり、自分の力で歩いていこうとすること――。
もちろん、その力の源は、時次郎への想いを確信から来るものでもあったろう。
だが、薄くほほえむ彼女のまなざしの先には、もっと大きな、生きようと、最後の最後までそのために力を振り絞る人間が抱く「希望」が見えた。
そしてその希望の存在のたしかさは、誰のものでもない「おきぬ」という一人の女性が人生をまっとうしたという「生きていた軌跡」を舞台に鮮やかに残す。
短い、儚い生涯だったかもしれないけど、彼女はたしかにこの世を生き切ったのだ。

おきぬの人生がちゃんとおきぬのもので終わってよかった。
そして、そういうおきぬに出会えてよかった。
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舞踊ショーではいつものビッグスマイルを見せてくれたかなさん。
今の大衆演劇界で極私的「この人を見よ」ランキング1位!



なにかこの先、いろいろな困難にぶつかって、息をするのがしんどい状況に陥っても、この日のかなさんのおきぬの輝きは、私を鼓舞してくれる力となるだろう。

その意味で、比喩ではなく、私のなかであのおきぬはずっと生き続けている。