レイ子のゆくえ:新風プロジェクト革新 #1『寝盗られ宗介』再演@篠原演芸場(5/11)

大衆演劇版『寝盗られ宗介』
2022年から日本文化大衆演劇協会の主催で開始された新風プロジェクトは、お客さんからの脚本募集等でこれまでさまざまな新作を世に送り出していた。

しかし、その一連の企画のなかで、日本演劇界の有名作を大衆演劇役者が主体となって上演する、という試みがあった。それが、22年10月14日に篠原演芸場で行われた、つかこうへい作『寝盗られ宗介』の上演だ(便宜上、「篠原版」と呼ぶ)。
新風企画にスタートからコミットしている演出家の渡辺和徳さんが、つかさんの作品を主に上演する演劇ユニットである9PROJECTのメンバーであることから生まれたこの企画。

『寝盗られ』は有名作だが、恥ずかしながら私は今回が初見だった。
主演の宗介にスーパー兄弟の龍美麗さん、相手役のレイ子に9PROJECTの高野愛さん。
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再演の際のローチケのチケット特典である、公演ポスターのクリアファイル。


全国を旅回りする大衆演劇の北村宗介一座の座長宗介と内縁の妻・レイ子との関係性を中心に物語は紡がれる。だが、この作品の妙味は、一座の現在形の物語とこの一座が上演している劇中劇が織り混ぜられて進行していく点だ。


◆鳴らない携帯が鳴るとき
宗介座長か演じるのは、湯屋で働く下剃り宗介実は六代将軍徳川家宣。レイ子が主に演じるのは、宗介の妻で女郎のお志摩。

現実と劇中劇が錯綜するので初見だとわりと頭の切り替えが必要だが、美麗さん演出の篠原版は道具や背景幕をフルに使い、大衆演劇らしく具象表現で演出されていたのでとてもわかりやすかった。

宗介座長は妻のレイ子がほかの男と逃げても=寝盗られても、その相手の男(座員が多い)の面倒を最後まで見る変わり者。妻が逃げたと聞いてもどこか飄々としていて、今度は何ヶ月で戻ってくる?と聞くのがいつものパターン。
レイ子はたしかに移り気のように見えるが、まるでその逃避行は、彼女を「放任」という形で突き放しても戻ってくるかどうか、宗介のレイ子への試し行動のようにも感じられる。

そんな夫との関係に疲れたレイ子はついに、座員のジミーと一緒に一座を抜け、今度こそもう戻らない
、と宗介に告げる。

その言葉をまったく信頼しない宗介は、数ヶ月後、故郷の十和田で妻を親族や生まれ育った土地の人たちにお披露目すべくレイ子の名前を呼ぶが、彼女はなかなか現れない。
「俺のベタ惚れのかあちゃんよ!」――宗介の何度目かの呼び声、ドラムロールは鳴るが、スポットライトの先には誰もいない。

ついに諦めた宗介が舞台上に寝転ぶ。虚脱感が重くのしかかってくる。
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23年5月再演時口上の美麗さん。このお衣装が大衆演劇界随一
決まる人。それも宗介という役には必要なのかも、と実感。



初見だったので、レイ子は帰ってくるのか?こないのか?とドキドキしながら観ていた私がもっとも印象的だったのはここからだ。

自暴自棄になる宗介。
するとそこに、座員のジミー(彼は戻ってきたのだ)が携帯を手に、奥さんからです、といって駆け込んでくる。
その言葉にガバリと身を起こす宗介だがしかし、気づくとあたりはもうもうとスモークが立ち込めている。

喜びを全身から発する宗介が幕を開けろと叫ぶと、教会のような背景幕を背に、白い高い台の上に立つレイ子の姿が見える。
純白のシンプルなドレスを着た彼女は、振り向く形で薄くほほえんで宗介を見下ろす。
その彼女を仰ぎ見る宗介――幕。
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23年5月再演時口上の高野さん。最後のレイ子のお衣装で。
高野さんレイ子は、その強気のなかのいたいけさが、
美麗さん宗介が相手だとより表出してくる。



これを観た私は、あ、レイ子はもう戻らないんだ、死んだかどうかはわかんないけど、少なくとも最後のレイ子の姿は宗介の夢想だな、と思った。

だって、大量のスモーク+十字架の見える背景幕+白い高い台(篠原でこれが使われるときは、あの世とこの世の分かれ目、みたいな効果を表すためが多い)+ウェディングドレスにも見えるけど死装束にも見えるレイ子の衣装、とこれだけ要素が集まってる。
なにより、「ジミーの携帯」。

芝居の中盤、レイ子と出ていくというジミーが嬉しそうに、僕、携帯電話買ったんです!……でも誰からも一度もかかってきたことないんですけど……と、自分の携帯を座長に見せるシーンがある。

そのジミーの「5年間一度も鳴らなかった携帯」が「鳴る」
ジミーという人物のイマジナリーフレンド的雰囲気と相まって、この仕掛けはどう考えても現実世界とは思えなかった。
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23年5月再演時口上のジミーを演じた大五郎さん。
美麗さんが劇界一スーツが似合うなら、こちらは
劇界一つなぎが似合うと言っても過言ではない。



そして、この切なくもファンタジックなラストがとても気に入ったのは、なによりこの演出が、少女マンガ的な伸びやかな肢体を持つ美麗さんの(スーツ姿がこんなさまになるなんて!)、爽やかで甘やかな雰囲気にピッタリだったからだ。


◆帰ってくる?帰ってこない?
で、人間良いお芝居に出会うとその芝居を深堀したくなる。
ということで、この篠原版のすぐあとに、その直前に公演していた9PROの同作の配信を観た。
そこで衝撃の事実を知る。

レイ子本当に帰ってきてんじゃん!!

なんと、9PRO版は、最後レイ子が息せききって駆けつけているのだ。
わからなくなった私は、今度は戯曲『寝盗られ宗介'96/ロマンス'97』(三一書房、1997年)を借りてきた。

帰ってきてる!!
ていうか、「幸せにしてくださいね、わたし、おもいっきり甘えますから」ってセリフまで書いてある!

念じれば呼び寄せるのか、数週間後、ちょうど映画の『寝盗られ宗介』をWOWOWで放送するという。観た。
帰ってきてるとか以前に全然作りが違う(劇中劇がない)!でも帰ってきてる!!結婚式してる!!!

つまり、デフォルトの演出は「レイ子は帰ってくる」だったのだ。

それから半年ちょっとたった、23年5月。
篠原版初演でジミーを演じた劇団暁の暁人さんの宗介、高野さんのレイ子という配役で同作が上演されたが、これもレイ子は帰ってきていた。


さて、このように『寝盗られ宗介』を過剰摂取した状態で、2023年5月11日、主演は美麗さん、高野さんと初演と変わらないが、下座は橘劇団という編成で篠原版が再演された。

私は、「帰ってくるレイ子」がデフォルトだ、という認識で、この篠原版を見たらどう感じるか、自分で知りたかった。
結果、やっぱりレイ子はどう見ても帰ってきていない。
いや、宗介は彼女をたしかに見上げているから一概に「帰ってきていない」と言うのも間違いかもしれないが、それでも、宗介と私たち観客が最後に目にするレイ子は、現実のレイ子ではないという感触だった。

すると、芝居後の口上でも美麗さんがラストの演出に言及していた。
美麗さんは最初に本作を知った際、これレイ子帰ってきたのか?死んでんじゃないのか?と思ったそうで、そこからの着想でのこの演出だったということがわかった。
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篠原版初演以後、チェックした戯曲(初演版&96年版)と小説。全体的な構造は96年版が
もっとも近いけれど、そのままではもちろんない。初演版も96年版もレイ子は帰ってくるが、
小説では語り手(一座の音響係)がスポットライトのなかにレイ子を幻視する、という
描写なので、篠原版は小説に近いとも言える。



帰ってくるのか、こないのか。
演出次第でどちらでも解釈可能な戯曲、幅のある戯曲ということは、つまりそれだけテキストに強度があるということだろう。
ただ私は、「帰ってこない」という演出に惹かれる。それは、劇中劇の宗介とお志摩が結局結ばれないからだ。
本作は、登場人物の生活と劇中劇が交差して描かれる。当然、現実の宗介と演じる役(下剃り宗介)、現実のレイ子と演じる役(お志摩)がオーバーラップしていくのが芝居の趣向でもある。実際、劇中劇の宗介はお志摩を音吉に寝盗らせようと差し向けている。
ただ、それはただの趣向で終らない。なぜなら、彼らはただの役者ではなく、「大衆演劇」という、文字通り毎日なんらかの芝居、役を演じている人々だからだ。

毎日役を演じること。
役が実人生を侵犯してくるほど、役が本来の自分が溶け合ってしまう――。
これは大衆演劇に対しての一つの夢想だ(井上ひさしの『化粧』もそういう発想で作られている)。
ただ、下剃り宗介(実は家宣)との婚姻をお志摩が許されないのなら、やはり北村宗介とレイ子も結婚できない、という結末は、役なのか本来の自分なのかの境界線があいまいな、そういう人たちがいる、そしてそういう人たちにしか成しえない「芝居」というものがたしかにあることを感じさせる。


◆可愛い宗介
私はこれまでスーパー兄弟とあまりご縁もなかったので、美麗さんという役者さんに対して、名は体を表すの美貌で、しかもその美貌ゆえに醸し出す温度も低く、「孤高」のイメージがあった。
ところが、宗介を演じている美麗さんを観て、ああこんな一面もあるんだ、と新たな美麗さんに出会えたような気がした。

宗介という役は、座長としては座員思いで、妻と逃げてもその後の座員の生活まで保障するあたり底抜けのお人よしに見えるのだが、対レイ子で考えるとずいぶん身勝手な男でもある。レイ子の行動は明らかに夫に腕を掴んでもらいたいがゆえのものだが、それを無意識下にわかっていて宗介は彼女を突き放し放逐する。
劇中劇のクライマックスで、お志摩演じるレイ子が宗介演じる下剃り宗介実は家宣に対し、こんなセリフを言う。
「いつも私は、あなた様の背中ばかりを見つめ続けておりました。あなた様の背中は広く、明るく、時に冷たく手を差し延べようとすれば遠ざかり、遠ざかれば遠ざかるほど、つのる愛しさに身悶えする毎日でございました」(『寝盗られ宗介'96/ロマンス'97』三一書房、1997年)
戯曲には記されていないが、ここからの台詞は劇中劇の台本にはない、レイ子のアドリブという設定だそうだ(木馬館、篠原それぞれの口上で、暁人さんと美麗さんが熱く語っていた)。

近づこうとすればするほど遠ざかろうとする。でも、関係性を決定的に断ち切ることはしない。
つまり宗介は、一言で言えばとても厄介な男だ。
ではなんでそんな男のもとにレイ子は都度帰ってきてしまうのか。

きっとなんか可愛いからだろうなぁ、なんて私は思う。
そんな笑っちゃうくらい単純でめちゃくちゃプリミティブな人としての魅力が、美麗さんの宗介にはある。
妻がほかの男と寝るよう仕向ける、なんておよそ複雑怪奇な愛し方しかできないめんどい男だけど、なにかどこか決定的にいじらしい人。

特に際立つのが、生来の坊っちゃんっぽさ(実際宗介は裕福な家の生まれだ)。大きな敷地内に座員みんなで暮らす、という子どもみたいな構想をぽよんとした風情で、でもその実現を信じて疑わない様子で話す。無邪気なのだ。
そんな王子様気質がまた、劇中劇の下剃り宗介実は徳川家宣という将軍家の血統に連なる役のニンとも合致する。

ラスト、レイ子の言う「広い背中」を客席に向けて、彼女を迎えるべくポーズを決める美麗さん宗介の広く美しく晴れやかで愛に満ちた後ろ姿は、私の観劇史のなかでも忘れられないひとコマになった。
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芝居のラストに流れる玉置浩二の『メロディ』が最高の切なさを生むのだが、舞踊ショーでは、同じ玉置浩二による
『無言坂』。広い背中が見えた瞬間、宗介だ!!と興奮。



◆守り神としてのジミー
初演の暁人さんのジミーも愛嬌たっぷりで大好きだった。
では再演のジミーはというと、なんと「大衆演劇の申し子」(勝手に言ってるけど異論はないだろう)橘大五郎

この大五郎さんジミーがすごかったのは、レイ子がジミーと逃げると宗介に告げにきてからの3人の場面。ここから夫婦の口喧嘩が始まる。その2人を、着物を畳みながらやわらかく眉根を寄せて見ているジミー。

私は大五郎さんのジミーを見ていて、まるでこのジミーは、「寝盗る男」を挟まないと成立しない宗介とレイ子の関係性を保たせるため、みずから「寝盗る男」になったみたいだ、と思った。
言わば、夫婦を結びつける紐帯、子がいない2人にとって「子はかすがい」ならぬ「ジミーはかすがい」。

だからこそ、そのすぐあとの「僕、座長が好きなんです!」のセリフがものすごく自然に聞こえる。
ジミーは、座長が、レイ子が、その2人が一緒にいることが一番幸せなのだろう。

ジミーという役はこんな風にも捉えられる、ということに本当に驚いた。
このジミーだからこそ、鳴るはずのない携帯も鳴る。
幕切れ寸前の、大五郎さんジミーの「もしもーし!!」は、幻想を追うピュアな人間の切なさに満ちていた。
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長いこと座長をやっているのにずっとフレッシュで
ピュアネスがあるのってとんでもなく得難い人だ、
と友人とうなずき合った大五郎さんジミーでした。



大衆演劇役者の力
私は、今は大衆演劇メインだが、一応、歌舞伎、ミュージカル、宝塚、新劇(って今言う?)、小劇場、オペラと雑食で観劇する。

大衆演劇以外のジャンルを観ていて実感するのは、大衆演劇の役者さんたちがいかにチャーミングでいかに技術があるか、ということだ。
そういうことを伝えられるべき場で役者さんたちに伝えても皆さんとても謙遜されるけど、本当に!!あなた方は!!すごいことをやっているのですよ!!!それも毎日!!!!と私は声を大にして言いたい。

こういう小劇場のお芝居も、彼らが演じることで新たな魅力が発見できる。
こんなに縦横無尽にそれぞれのお芝居の世界を構築できる人たち、劇界のなかでもなかなかいないんだから。
それを目の当たりにさせてくれた新風プロジェクトという企画に感謝と、そして今後ますますそういう機会が増えるよう期待を込めて。

いつか篠原演芸場で『ゴドーを待ちながら』だってやれる日がくるかもしれない!
そんな無限の可能性に心躍らせた篠原の夜だった。

権次の義侠心:劇団炎舞『上州土産百両首』@けやき座(4/29)

大衆演劇を観て数年、という人であれば1回くらいは『上州土産百両首』は観たことあるだろう。
O・ヘンリーの小説をもとに昭和初期に歌舞伎で初演された本作。主演は、六代目尾上菊五郎と初代市川吉右衛門という大名優同士。
けれど、物語内容的に当の歌舞伎よりも大衆演劇のほうが合うようで、歌舞伎では定番狂言とはいえないが大衆演劇では多くの劇団のレパートリーになっている。

話の筋としてはごくシンプルで、とある組の下っ端だった正太郎と兄弟分の牙次郎とがカタギになろうと3年後の再会を約束し別れるが、正太郎はかつてのヤクザ仲間の権次を殺めることになってしまい、再会後、岡っ引きの家で飯炊きをしている牙次郎とともに番屋に名乗り出る、というもの。
兄貴分の正太郎と、ちょっとドジな牙次郎の関係性に焦点が当てられた作品だ。
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終演後の口上で、正太郎を演じた炎鷹さん。
後ろに見えるのは、新人さんの橘苺夢さん。



ただ私は、正太郎が転落するきっかけとなる、敵役の権次に注目してしまう癖がある。
本作を始めて観たのはそれこそ歌舞伎(2014年1月浅草公会堂)だったのだが、そのときの権次(歌舞伎の役名はみぐるみ三次)は「わかりやすい敵役」であり、正直特に際立った印象はない。

一方、大衆演劇で本作を始めて観たのは、2015年11月、劇団炎舞の橘鷹勝さんの20歳の誕生日公演。
このときの感想は、当時のブログにも書いたが、この権次のキャラクター造形に驚いたので、私はそれ以後権次ウォッチャーになっているのだと思う。

当時の記事にははっきりとは書いていないが、炎舞版は正太郎の人物像がいなせでシャープというよりやわらかくて優しいのと、権次を演じていたのが男っぽい色っぽさをたたえた北城嵐さん(ゲスト出演)だったため、ずばり権次×正太郎、もっと直截に言えば、このふたりはつきあっていたでしょう!?としか思えなかった。。
権次がなにかっちゃ言う「地獄」比喩(「俺はお前を許さねぇ。地獄の果てまで追ってやる」「(呼び出しの文面に)地獄の使いより」)も、正太郎がただカタギになったから許せない、みたいなひがみの範疇からは逸脱してる。私怨てか情怨があるな!っていう。
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嵐さん×炎鷹さん。このときのつくばではともかくこのカップリングに大興奮してた!


まぁそれ以後、他劇団で同作品を観てもこの2人がそんなふうに見えることはないわけだが、そういう「読み」だって可能な芝居なんだな、という気づきがこのときの上演にはあった。

そして7年とちょっとたった今月、やはり劇団炎舞でまたこの作品を観た。
その年月の間で劇団の地図はまた新しく塗り替わり、かつて弟分の牙次郎を演じていた花形の橘鷹勝さんが権次に、牙次郎は橘あかりさんが演じている。

しかし正直に告白すると、牙次郎のあかりさんが出てきた瞬間、あ、そうか、年齢的なことを考えたら必然権次を鷹勝さんがやるのか……権次を……、としばし戸惑ったように、この配役を頭から受け入れられていたわけではない。
あかりさんの牙次郎は、個人舞踊などで見せる﨟󠄀たけた美しさとはまた違ったマスコットにしたいような可愛さ全開で、うわぁこの牙次郎だったら正太郎たまんないだろうな、と序幕から感じさせた。
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あかりさんの舞踊は技術が高いのはもちろん、リリカルかつ
抽象度と具象度のバランスがめちゃよくて「物語」としてとても見やすい。



けれど、権次は……。
鷹勝さんという役者さんは、常にアイデアに溢れていて、観客側に自然に「希望」を抱かせるという点で稀有な芸風だと思うが、彼を一度でも観たことがある人はわかるだろう、超人懐っこい犬がそのまま人間になった、みたいな明朗な風情の役者さんだ。
つまり、あのひねくれきってひがみ根性丸出しの権次のニンではないのでは……というのが一番の懸念だった。
それに重ねて、繰り返しになるが私のなかには、かつて嵐さんのセクシー権次によって開かれた新しい世界が確固として存在する。そして、この作品をその後何度となく他劇団でも観ているが、このときの「新鮮さ」に匹敵するものとはまだ出会ってなかった。

そんな心持ちだったので、「いつもの『上州土産』」だろうな、と思って見始めたのだ(と書くとめちゃくちゃ失礼な言いぐさのようだが、作品自体しっかりしているので「いつもの」でも十分おもしろいことは織り込み済みだ)。

ところが、である。
序幕で、正太郎がカタギになることを決意し、親分に申し出る。
親分は快く了解するが、収まらないのは権次だ。
親分が去ったあと、権次は正太郎に、親分が許しても俺はてめえを一生許さねぇ、と詰め寄る。そのなかで、鷹勝さんの権次の「おめえのせいで牢屋にぶち込まれた仲間もいる」という一言がものすごく際立って聞こえた。
その瞬間、あ、鷹勝さんの権次はこういう人なのか!目から鱗が落ちた。
この権次が正太郎をあれほど憎むのは、お前の間抜けのせいでひどい目にあった仲間もいるなかでお前はぬけぬけとカタギになるのか、という、自分以外の誰かを思いやっている、自分以外の誰かが背景にある怒りだったのだ。
権次がはけたあと、牙次郎が、今の人はずいぶん感じが悪い、とぶつくさ言う台詞に対して、正太郎が「普段は優しいにいさんなんだ」という台詞も、こういう権次であればとても説得力がある。
つまり、この権次像は「橘鷹勝」という「陽」の持ち味が強い役者さんならではの、そのニンを活かしたオリジナルな権次になっていたのだ。
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イデアマンの鷹勝さんは、「新風」公演に興味津々の様子。
今回の関東公演中にご縁があればいいなぁ。



そして、こうなってくると、炎鷹さんの正太郎のピュアさにも意味が出てくる。
本作の正太郎は、牙次郎との対比を強調するため、粋でいなせな兄貴分、という役作りをする人のほうが多い。しかし、炎鷹さんの正太郎は、物腰もとてもやわらかく、言わば「しっかりとした牙次郎」と感じさせるところに特徴がある。

権次の、「お前のせいで仲間が」という台詞を聞いたあとにこの正太郎を見ると、なんというか、この正太郎は過剰にピュアなのだ。その瞳の美しさ、輝きは、とてもスリをしてきた人には見えない。それに加えて終始優しげでおっとりとした風情。
ああ、もしかしたらこの正太郎は、自身のピュアさゆえに人の足を踏んでいても気づかない人なのかもしれない、とこれまでとは別の風景が見えてきた。
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40代半ばに突入しようとは思えない若々しさを見せる炎鷹さん。
正太郎のピュアさがこんなに嫌味なく成立させられるのは、
元々そういう質を持っている役者さんだからかなと。



正太郎は悪くない。彼は人の好意をきっとそのまま受け取る裏表のない人なのだろうから。
でも、彼がいたのは切った張ったの侠客の世界だ。そういう「美しい鈍さ」を持った人間は生きづらいばかりか、そういう存在によって思いもよらない犠牲が出る世界。
にもかかわらず、「親分の好意」という幸運のみによって、そんな正太郎自身は泥のつかないままカタギの世界にあっさり旅立っていこうとする――そりゃ権次はやるせないだろうと、この作品を観始めて初めて私は彼に心を寄せた。

鷹勝さんの権次が無類によかったシーンがある。
3年後、上州の旅籠で、正太郎と親分、権次は思わぬ再会をする。立派な料理人となり、旅籠の跡取り娘と祝言の予定があることを親分は真正面から言祝ぐ。それにやはりなんのてらいもなく応じる正太郎。
このふたりの会話をじっと黙って聞いている権次。
口を真一文字に引き結んだ権次のまなざしは下を一点向いて離れない。その横顔から、かつての仲間、すなわち牢屋に入った者、果ては命を落としたであろう者の姿や、砂がこぼれるように一家から人がいなくなった現在の窮状――そんなこれまでの彼の来し方が浮かんでくるようだった。なにかに耐えている人間の顔だった。

その後、正太郎を呼び出した権次は蔵の中から100両取ってこいと要求する。その揉め合いで、ドスを抜いて「最初から金なんて関係ねえんだよ!」と正太郎に襲いかかる権次。
金がほしい、ではなく、お前だけ綺麗なままじゃ誰かが報われない、お前も一緒に泥にまみれろ、というのがこの権次の真の要求だったのだろう。
そして皮肉なことに、権次はみずからの命をもって正太郎を泥の中に引きずり落した。

けれど彼はきっと、地獄に向かう道中、してやったりと不敵な笑みを浮かべているに違いない。
権次の向かう先にはかつての仲間たちが待っている。

持続可能な大衆演劇:劇団美松『ヤクザ男が目に涙』@篠原演芸場(3/19)

大衆演劇のお芝居は、あらすじを書いたら3行で終わらせることもできる芝居が多い。
劇作もする友人が、その芝居の特徴を「余白が多い」と喝破したけど、たしかに、その3行の間にたっぷりある余白を役者さんの芸で10行分にふくらませていける点が、この芸能のおもしろいところでもある。

とはいえ、その3行のみを見たとき、一見のお客さんは戸惑うことが多い。え?その流れ無理ない?とか、え?そんな感じで人死ぬのおかしくない?とか。
いや、一見さんだけでなく、普段大衆演劇を観なれている私ですら、10年前には普通に観られていたのにこちらの感覚の変化によって観るのがしんどい……と思う芝居はある。
もちろん、今より以前に作られた芝居を今の感覚で断罪するのは違う。けれど、私たちは今を生きる人間。あまりに無理筋、あまりの理不尽を前にしたら、堪能する、楽しむことが真っ直ぐできなくなるのは当然だ。

大衆演劇にはいいお芝居はたくさんあるが、そのしんどさが積もりに積もっていけば、人が離れてしまうのはしかたないこと。では、時代を超えて持続可能な大衆演劇の芝居とはどんなものなのか。そのヒントがたくさんつまった芝居に出会った。
劇団美松で現在特別出演している藤川雷矢さんの祭りの日に上演された、『ヤクザ男が目に涙』だ。

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大衆演劇ならではの快感に浸りたかったら、
なにはおいても「雷矢祭り」に行くべし!


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劇団美松@篠原演芸場(2023/3/19)
お芝居『ヤクザ男が目に涙』 ※人名は当て字です

登鯉の義治(よしはる)実は坂田軍十郎/登鯉組代貸・宗七(そうしち):藤川雷矢
旅人忠太郎実は坂田忠太郎:松川小祐司
白川権蔵:南雄哉
白川組用心棒:藤川昭博・藤川真矢
白川組三下:市川華丸
義治妻おかつ:大和歩夢

【あらすじ】
①同じ土地に一家を構えている登鯉組と白川組。白川組の親分・権蔵(雄哉)は、目の上のたんこぶである登鯉組の義治(雷矢)を騙し討ちしようと画策。
②ちょうど一家に草鞋を脱いでいた旅人・忠太郎(小祐司)にこの仕事を頼む。一旦は断る忠太郎だが、自分の赤ん坊を人質にとられたため、義治に斬りかかる。
③虫の息の義治はその太刀筋を見て、忠太郎こそ、奥州仙台藩武家の家の長男であった自分のなさぬ仲の弟だと気づく。兄探しのために武士から侠客に身を落としたのに結局その兄を手にかけた事実に慟哭する忠太郎。泣く泣く兄の首を討ち登鯉一家に向かおうとするところ、事の露見を恐れた権蔵の命で白川組の用心棒二人(昭博・真矢)が忠太郎を斬る。
④一方、登鯉組では、義治女房おかつ(歩夢)と代貸・宗七(雷矢)が義治の弔いをしている。そこへ手負いの忠太郎がやってきてすべての全貌がわかるなか、権蔵たちが登鯉組へ討ち込みに訪れ、宗七は彼らを成敗、忠太郎は息絶える。


◆心地よい裏切り
ちょっとわかりやすくするため、あらすじを、①起 ②承 ③転 ④結、に分け番号を振ってみた。
今回のお芝居は初見だが、大衆演劇見始めて10年ちょっとたった私は、言わばもうすれちまった観客……。

まず、②の時点で、はいはい、結局は義治になんの非もないとわかった忠太郎が自分の子を奪還しがてら権蔵一家を成敗してチャンチャン、でしょ、と思っていた。
でも、え!兄弟!?しかも武家の出!?にまずビックリ。
次に、③の時点で、はいはい、じゃあ忠太郎は自分の子を奪還しがてら兄の敵討として権蔵一家を成敗しつつ登鯉一家も盛り立てて武士に戻ってチャンチャン、でしょ、と思っていた。
でも、え!斬られてる!そんなあっさり!ともう一度ビックリ。
忠太郎が斬られたときには新作でもないのに、このあとどうなるの……!?とドキドキしたくらいだ。

忠太郎が、義治を弔っている登鯉一家に訪れたあたりで、そうか、これは影腹を斬るバージョンの『三浦屋孫次郎』の変奏のようなお芝居なんだな、と気づく。
つまり、あくまで骨組みは大衆演劇らしい形をとりながら、その前提を少しずつ気持ちよく裏切っていく作りになっている。
言い換えれば、大衆演劇あるある」をよく理解している人こそ、え!そうくる!?と楽しめる作品だ。
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芝居後の口上で忠太郎の扮装のままラストショーの
三味線への意欲を語りまくる小祐司さん(笑)。



◆類型でありつつ類型から離れて
『三浦屋孫次郎』の変奏だ、という視点で見ると、義治の爽やかな親分ぶりは笹川繁蔵のそれだし、義理に挟まれて義治を討たなければならなくなる忠太郎は孫次郎を彷彿させるし、夫を弔いつつ気丈に物事に対応するおかつは繁蔵女房と重なる。

でも、義治の「長子でありながら生さぬ仲の二人に遠慮して家を出奔した」というバックボーンは、彼をただの侠客ではなくさせてるし、忠太郎の「赤ん坊と旅をかけ、その赤ん坊を人質にとられたがために不本意な仕事を引き受けざるを得なくなる」という設定からは自然と「父性」が付与されて、彼をただの旅人ではなくさせてる。

そして、私がもっとも新鮮だったのはおかつと宗七の描写だ。

首のない姿で帰ってきた義治の棺桶を前に、代貸・宗七は、白川組の仕業に違いない、と一家を飛び出そうとする。
このシーンを観ていて、令和の世の観客は大半が、いやそうかもしれんし事実そうだけど、勝手に決めつけて殺そうとするんかい……と引くと思う。少なくとも私は引いた。でも同時に、私のなかの大衆演劇補正が「まぁ大衆演劇だから」と、この違和感を秒でスルーしようとする。ほかの芝居だったら、このまま宗七が白川組を成敗に行ってもおかしくない。

けれど、そこでおかつがひと声「お待ち!」。続けて、私も白川組の仕業だとは思うが確たる証拠がないんだからまだ動いてはいけない、と威厳をもって宗七をたしなめる。

『三浦屋孫次郎』におけるお繁も立派な女房という体で出てくるが、彼女に主体性が感じられる演出は観たことがない。なんなら台詞もひと言、ふた言で、基本代貸の勢力富五郎が話を進めていく。

おかつのこの行動を見て、ま、まともだ……!とホッとすると同時に、おかつのクレバーさが際立つし、もうここにはいないけど、こういう人物を妻にしてることで義治の大きさも改めて実感できる。
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立役もきちんとできる人ならではの、強さと柔らかさが
ちゃんと両立してる歩夢さんのおかつはとてもよかった。


もうひとつ印象的だったのは、宗七が、兄を探して結果兄を手にかけることになった忠太郎の不憫さに慟哭するくだりだ。

泣く宗七を見ておかつは、「お前さんは泣くことができていいよね。でも私は登鯉一家のおかつ。世間様の手前そんなふうに泣けないんだよ」と訴える。

夫が無惨に殺されても、いやだからこそ侠客の一家の長に収まってしまった身ゆえに、「嘆く」なんて弱さは見せられない。
ここで宗七がハッとして涙を抑えるという行き方も、大衆演劇にはあるだろう。そういうおかつの在り方を賞賛する=体面とか義理とかを賛美する方向。

ところがこの芝居はそんなふうに「あるある」では進まない。
おかつの言葉を受けた宗七は、一呼吸置いて、「泣いちゃあ駄目なんですかい?」と彼女に問う。
亭主と、義理とはいえ弟を失おうとしてる今、泣いてもいいんじゃないですか?そんなことで誹ってくる世間の声なんて聴く必要ないでしょう、と。
そして、この宗七の言葉を受けて初めておかつは大きな声をあげて泣くことができる。

現代でも「体面」や「立場」が人の行動を不自由にさせている場面は往々にしてある。
でも「そんなことを嗤う世間は放っておけ」ときちんと言ってくれる宗七の真っ当さは、そういうふうにしか生きられない私たちの苦しみを解放してくれる力があった。

このように、皆大衆演劇でお馴染みの役柄でありつつも、それぞれに独自の味つけがされていて、類型でありながらところどころ類型を逸脱しているのがとてもおもしろい。

そして、類型を逸脱するということは役が生きているということを実感するということだ。
この、逸る宗七を一喝したおかつと、そのおかつに泣いてもいいと意見する宗七。互いの欠点や弱さを補い合っている。
ただかっこいいとか、ただ血気盛んとか、そういう単調な色合いから離れた、一種の「人間くささ」が、このふたりの関係性からは浮かびあってくる。


◆今に生きる「昔ながらの芝居」
「昔ながらの芝居を大切にしたい」。
こう言ってくれる役者さんはけっこう多いし、その心意気は嬉しい。

でも、本当に、「昔ながらの芝居」をそのまんまやっていくことは危険だ。
冒頭の繰り返しになるが、私たちの感覚は時代が進むにつれどんどん変化していくから、「昔ながら」という言葉に甘えてその変化を無視すれば、お客さんは自然と離れるしかなくなる。
そもそも、大衆演劇はそういう刻一刻と変わっていく「大衆」の感覚を鏡のように写すものだからこそ、その劇団、その役者さんの手で改変することがタブーになっていないのだと思う。

その意味でこのお芝居は、土台は「昔ながら」でありながら、令和を生きる私でも思わず心寄せてしまう人たちが描かれていた。
封建社会のなかでも、義理を重んじる侠客の世界のなかでも、できるだけ人らしく生きようとする宗七の、おかつのヒューマニズム

そして、一見お馴染みのパターン、役柄でありながら、それを少しずつずらして新鮮さを確保していく手法。ちなみに、要所要所では山あげもたっぷりで「昔ながら」の良さも実感させてくれる。

おなじみの料理だけど、ちょっとずつ旬のものを添えて、味付けを変えて、丁寧に作られていれば、それは毎日飽きがこない、ずっと食べ続けられる最高の一品になるのだ。

立ち上がるおきぬ――藤乃かなが描く世界:新生真芸座『沓掛時次郎』@庄内天満座(5/7)

彼女は立ち上がる。懇親の力を振りしぼって。
彼女は立ち上がる。明確な意志をもって。
彼女は立ち上がる。一人の人間として。


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2022年の末日、今年の芝居を振り返ると、かなりバラエティ豊かな芝居に出会ったという感触がある。
ただ、私にとっての今年の不動の1位は、5月7日、GW遠征で巡り会えた、哀川昇座長率いる新生真芸座『沓掛時次郎』の藤乃かなさん演じるおきぬである。

「今年の芝居」という枠で役者を挙げるのはいかにもおかしいけれど、そういう矛盾を凌駕する圧倒的な「役としての実感」が、このかなさんのおきぬにはあった。

まずもう第一声目からしてすごかった。
夫・三蔵と荷造りをする、そのおきぬが「お前さん」とひと言声をかける。
こんな、なんてことない言葉ひとつで、敵の手下たちがすぐそこに迫るなか幼い子を連れた家族3人であてどなく逃げなければならない、不安、焦燥感、張りつめた空気、すべてが伝わってきた。

このおきぬの声を聴いた瞬間、今日はすごいものが観られる……!と私は確信した。

次に、おきぬと時次郎の出会いの場面。
三蔵と敵対する組に一宿一飯の恩義があった時次郎は、三蔵の侠客としての潔さを察知していながらも、その身に刃を下ろす。
それを家の内から見ていたおきぬが思わず飛び出て、時次郎に応戦しようとする。その二人の目が合った刹那、まなざしとまなざしの間に光線が飛び散るようだった。
「恋」なんて甘やかなものじゃない。「通じ合ってしまった」者同士の対峙。

かたわらにいる最愛の夫は虫の息で、まさにその夫を斬った敵と、出会った瞬間なにもかもわかりあえてしまう、なんてことあるんだろうか、と私だって思う。
でも、目の前でそれを見せられたのなら信じないわけにはいかない。

私は今までこの芝居を観てきて、おきぬと時次郎は生活をともにすることで徐々に惹かれあったと解釈していた。
けれど、このかなさんのおきぬと昇座長の時次郎を見ていて、もっと苛烈な、火打石に走る小さな炎のような、本当に運命的な関係だった、というふうにも捉えられることを知った。

そして、もっとも印象的だったのは、おきぬの最期。

病み伏したおきぬ、その命の灯が今にも消えようとするとき。彼女は時次郎の名を呼んで、すっくと立ちあがる。
ひと足、ふた足、進んだところで崩れ落ちるおきぬ。一子・太郎吉(哀川旺芸さん)はその骸に取りすがって泣き、そこに時次郎が駆け込んでくる。でも、おきぬの目が開くことはもうない。

おきぬはアウトラインだけ見れば、いかにもかそけき存在だ。
三下の夫との間に太郎吉をもうけ、なんとか生計を立ててるなか、夫も死に、その敵の渡世人との放浪生活を余儀なくされる。それもつかの間、おなかに亡き夫の忘れ形見を宿しつつも病の床につき、30になるかならずやで果てる。

大衆演劇のなかに出てくる女性は、「誰かの〇〇」と帰属先のほうがフューチャーされることが多い。
おきぬの場合も、三蔵の妻として、太郎吉の母として、時次郎の想い人としてという、あくまで受動態の存在として表出されることも多い。

けれど、かなさんのおきぬの、あの最期に見せたひと足、ふた足。自分の力で立ち上がり、自分の力で歩いていこうとすること――。
もちろん、その力の源は、時次郎への想いを確信から来るものでもあったろう。
だが、薄くほほえむ彼女のまなざしの先には、もっと大きな、生きようと、最後の最後までそのために力を振り絞る人間が抱く「希望」が見えた。
そしてその希望の存在のたしかさは、誰のものでもない「おきぬ」という一人の女性が人生をまっとうしたという「生きていた軌跡」を舞台に鮮やかに残す。
短い、儚い生涯だったかもしれないけど、彼女はたしかにこの世を生き切ったのだ。

おきぬの人生がちゃんとおきぬのもので終わってよかった。
そして、そういうおきぬに出会えてよかった。
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舞踊ショーではいつものビッグスマイルを見せてくれたかなさん。
今の大衆演劇界で極私的「この人を見よ」ランキング1位!



なにかこの先、いろいろな困難にぶつかって、息をするのがしんどい状況に陥っても、この日のかなさんのおきぬの輝きは、私を鼓舞してくれる力となるだろう。

その意味で、比喩ではなく、私のなかであのおきぬはずっと生き続けている。

大衆演劇の魅力ってなんだろう?と改めて考えてみた:新風プロジェクト革新 #0

私は歌舞伎というものは、こういうものだと思っていたんです。つまり非常に美しい花である。この美しい花はどこか毒々しいのである。気味が悪い、それも綺麗なチューリップやバラならいい。けれども何か不思議な牡丹のような花、あるいは不気味は食虫類のような花、南米のアマゾンの流域にあるような不気味な花というような感じがしていたんです。
そうだとすると、その花を養うものの後には肥料がなければならない。その肥料はどこから出てくるか。土の中から出てこなければならない。その土の中には何が埋っているのだろうか。あるいは見るも恐ろしい動物の死骸が埋っているかもしれない。そして無気味な昆虫の死骸が積み重なっているかもしれない。ひょっとすると人間の死骸が埋っているかもしれない。梶井基次郎の小説に、桜の花は美しいけれども、桜の花を見るたびに、あの桜の根の下には、人間の死体が埋っている感じがする、という変な短編がありますが、そんな幻想を歌舞伎は抱かせるのです。

三島由紀夫(講演)「悪の華――歌舞伎」『決定版 三島由紀夫全集36』(新潮社)
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◆風を起こす
2022年5月、ツイッター上にこんなアカウントが作成されました↓
新風プロジェクト革新#0

どうやら、篠原演劇企画がまた新たな試みを始めるらしい……!
関東の大衆演劇ファンは色めき立ちました。

2年以上に及ぶコロナ禍で舞台芸術がどのジャンルも打撃を受けるなか、等しく傷を負っているであろう篠原演劇企画はしかし、22年に入り、「篠原演芸場創立70周年記念企画  新風プロジェクト」と題し、脚本を一般公募し劇化、また、外部脚本家による特別公演(同時に、「新風」と対置される「原点回帰」公演も企画)等、積極的に新規企画を打ち出しています。
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本プロジェクト下で3月に行われた「春の若手演劇祭り」@浅草木馬館。新調された幕が清々しい。
お芝居は梅川忠兵衛を骨子とした『夢の夢とて』(脚本:渡辺和徳)。


どのジャンルでも起こり得ることでしょうが、そこそこ長くその媒体と付き合っていると「運営」側への不満というものは溜まるもの。お客というのはどこまでもワガママなものですが、あーだこーだお気楽にブツブツ言えるのもまたお客の特権です。
私も、とても愛していたとあるジャンルの興行会社にさまざまな意味で失望した経験があります。興行会社が「お商売」しなければならないのは百も承知だけれど、それだとて、興行の打ち出し方が目先の利益優先で場当たり的すぎる、このジャンルをどう発展していきたいかの方向性、もっと大きく言えば思想が見えない、とガッカリの連続。

そういう思いをしてきた人間からすると、篠原演劇企画のこの、新しいことを積極的に!外部に開いていく!という姿勢は、とても心強くまぶしいものでした。
この偉大なるマンネリズムで動いている大衆演劇界(私はそこも愛していますが)にあって、「新たな風」を起こすことは、ジャンル自体の活性化に必ずつながる。ああ、この芸能は生きている!!と、新企画の報を聞くたび胸躍りました。


◆女性の座長がいるということ
そして、2022年7月21日(木)。本プロジェクトの目玉であろう、「新風プロジェクト革新 #0」公演がシアターミクサで行われました。

お芝居は『円環か螺旋か
』(脚本:坪田塁)。
2022/7/29(金)12:00〜8/4(木)23:59の間アーカイブ配信チケットで観ることができます↓


新作ですし、上記アーカイブ配信があるので、お芝居の内容以外の感想を簡単に(私は生でなく配信組であったことも付記します)。

まず、これだけのスター役者に適宜見せ場を作る台本作りは、相当苦慮されただろうなぁ、としみじみ。数多並ぶ、総座長・座長・若座長・花形……。本来だったら、このメンバーを4組くらいに分けて4本程度お芝居ができるはずです。
演出は、3月上演の『夢の夢とて』同様、劇団暁の三咲暁人若座長が担当されたそう。大衆以外の多くの舞台も観ている方だからかもしれませんが、そう広くない舞台を屋台も含め縦横無尽に使っていて、すでに手練れ感あり!安心して観られました。

また、物語の芯となる吉原の花魁・珠己を演じたのが女性の座長である、橘鈴丸さんだったことは快挙!
これは広く演劇界全体に共通していることですが、ジャンルによって微妙な差異があるとはいえ、演劇の主観客は圧倒的に女性が多く、一方、創作側はまだまだ男性が多数という状況になると、作品の主役は男性の役者が担う傾向が強いです。
私はもともと「女性の表象」に興味があったため、歌舞伎なら女形、宝塚なら娘役、大衆演劇なら女優さんに惹かれる傾向があり、特に大衆演劇の女優さんはとんでもない実力&魅力を兼ね備えている人も少なくないのだからもっともっとフューチャーされてほしい!と思うこともしばしば(とはいえ昨今は、個々の劇団で、少なくとも10年前より確実に女優さんにスポットが当たる機会が増えているとは思います)。

そうしたなか、この記念的な作品で、女性の座長として奮闘する鈴丸さんにスポットが当たったのはとても大きな意味のあることだったと思います。
余談ですが、私が某大学で大衆演劇についての話をさせていただいたとき、「大衆演劇って女でも座長できるんですか!?」と学生さんに驚かれたことがあります(女優さん志望の学生さんでした)。世の中のそういった認識を思うにつけ、外に開いていく、という意識を持った公演でこの配役は、業界自体の風通しの良さを感じさせるものでもあると思います。


◆「架け橋」としての外部公演
と、嬉しい側面があったのですが、ただ観劇後、私は改めて、「大衆演劇とはなんなんだろう?」と考えざるを得ませんでした。
歌舞伎には、「歌舞伎役者がやったらなんでも歌舞伎になる」という言葉あります。いや、ありました。
これはおそらく、現代とは比べものにならないくらい「歌舞伎」という芸能の色を濃くまとった役者さんがかつてはいて、そういう人たちは歌舞伎以外のものをやってもどこからしら常にその色が滲んで歌舞伎になる(なってしまう)、という意味だったのでしょう。けれど、この言葉も、たとえば当代の梅枝さんが数年前に、もう僕たち世代にその言葉は当てはまらない、と喝破されていました。

今回の舞台は、テイストとしては、今もっとも隆盛を誇る2.5次元のお芝居に近いものでした。魅力的な役者さん、華やかな衣装、平易な台詞回しと、企画どおり「一見さん」でも抵抗なく受け入れられる舞台だったと言い換えてもいいでしょう。

ただ、これは私たちが普段観ている「大衆演劇」と同じものなのか?この芝居を大衆演劇の役者さんがやる意味は?
歌舞伎同様、「大衆演劇役者がやったらなんでも大衆演劇になる」という時代では、おそらくないでしょう。
となると、「外に開いていく」ときに、大衆演劇の魅力とはなんぞや?果ては、大衆演劇とはなんぞや?ということを、企画・創作側が意識的に思考し、それを明確に打ち出す必要があります。
なぜなら、もっとも理想的な円環は、こういった外部向けの公演を観た観客が、通常の大衆演劇の公演の常客になることだからです。
大衆演劇界にもいまだ根強いファンが多い十八代目勘三郎さんは、仮設小屋での上演である「平成中村座」公演を定着させましたが、やはり「平成中村座は行くけど、歌舞伎座にはほぼ行かない」という観客が一定数いました。
基盤はあくまで通常公演だからこそ、その芸能自体の魅力を見極め、そこを濃く抽出したものを外向けの意匠にする、という営みを経る必要があるのではないでしょうか。


◆「大衆演劇の魅力」を探って
とはいえ、大衆演劇とは時代のものをなんでもうわばみのように飲み込んでモノにしていく、貪欲な芸能、言い方がを変えれば、「古典化しきらない」芸能です。
だからこそ、大衆演劇の魅力とは〇〇である、とか、大衆演劇の特質は〇〇だ、とか、たいへん定義しにくいのも事実。十人いれば十色の「〇〇」があるでしょう。

私としては、いろいろな芸能を観て大衆演劇にたどり着いたとき、ともかく驚いたのは役者さんのお芝居レベル&チャームの高さだったので(お芝居レベルについてはもちろん玉石混交ですが、高い人のレベルは筆舌に尽くしがたいです)、非常にプリミティブですが、じっくりお芝居を観てもらえれば一定数のお客さんは獲得できると信じています。その意味でも、こうしたスター芝居以外に、一劇団並みの人数構成での公演も期待しています。
あとは、古典化しきらないなかでも生き残っている「山あげ」の技法は、それをあえて避ける役者さんがいたとしても、大衆演劇の大事な生命であることは間違いありません。朗唱法が存在するという事実は、日本の芸能として位置づける際にも大きく作用することでしょう。
そうした、「大衆演劇ならでは」のものをうまく使って現代ナイズしていくのも一つの方法ではないでしょうか。

そしてもっとも大事なお芝居内容。
これはもう、多くの大衆演劇に伝わる作品を観ていただき、その魅力をそれぞれで感じてもらうほかありません。
本企画には、現在のところ、坪田塁さん、渡辺和徳さんの二名の脚本家が招聘されています。
この人たちが「外」から来た人であることは大事なことです。ですが同時に、一大衆演劇ファンとしては、お二人には大衆演劇の常打ちの芝居をこれからたくさん観ていただき、その魅力が凝縮された作品を望みます。


◆この芸能を信じる
冒頭にあげた文章は、昭和47年、国立劇場歌舞伎俳優養成所が開所した際、同劇場の理事であった三島由紀夫が第一期研修生に向けた講演で語った言葉です。
歌舞伎と大衆演劇は違う芸能ではありますが(ただ、おじいちゃんと孫くらいの関係ではある、ととある座長さんが言っていました)、私は、ここで三島が言う「花」「幻想」が、現代の大衆演劇にはまだあると思っています。
外に開いていくとき、もっとも大切なのは、芸能の魅力を信頼し続けることでしょう。
大衆演劇の軸がお芝居ならば、大衆演劇のお芝居の力を作り手側が信じ続けなければなりません。問い直しを含めつつ、常に信頼していくこと。
そして、その信頼が揺らがないよう、この芸能の魅力を、必要な際は批判も含めつつ、言葉に、行動につなげていくことが、私たち観客の役割なのです。

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もちろん私は歌舞伎の改良ということを全然否定するわけではありませんけれども、歌舞伎というものは、悪に繋がっているということを信じますから、ああ、いくらでもいくらでも綺麗にしてごらん、綺麗にしたら何が失くなるか、よく考えてごらんというより他にないんです。
三島由紀夫(講演)・同上

弥太郎の手:劇団美松『関の弥太っぺ』@篠原演芸場(1/5)

お芝居を観ていると、ときどき、あ、私このシーンずっと忘れないだろうな、と思う場面に出会うことがある。

それはもちろん、ここぞという見せ場、いわゆるしどころのある場面であることが大半だ。けれど、そうではなく、本当にさりげない、芝居の主筋には関係ないシーンでもなぜだか心に残り続ける、ということはある。そういうシーンを私は、「お芝居らしいシーン」と呼んでいる。

2022年1月5日、お正月気分もまだ冷めやらぬ篠原演芸場で、そんなシーンに出会えた。
芝居は『関の弥太っぺ』、演じるのは劇団美松だ。

序盤、父に死に別れ独りになったお小夜を、彼女の祖母が切り盛りする旅籠へ連れていく弥太郎。
戸惑う祖母の女将に事情を説明する弥太郎は、行きがかり上、お小夜の父の最期をも話すことになる。
話しかけた途端、幼いお小夜を見てハッとする弥太郎は、「ちょいとごめんよ」と言って、小さな子に知らせるにはあまりにつらい顛末を、お小夜の両耳をふさぎながら語る。
話すうち、つい力がこもってしまったのだろう、やがてお小夜が「おいちゃん痛いよう」と訴えると、「おお、ごめんよ」と弥太郎はパッと手を放す、このシーン。

お小夜演じる桜川幸梅さんの小さな顔が、雷矢さん演じる弥太郎の大きな両手で包まれる。

本当に何気ないシーンだけれど、改めて、弥太郎という人間の優しさ、人の傷に即座に気づいて「しまう」性根が出ていて、なんて素敵な情景だろうと胸打たれた。
状況がわからず怪訝な顔でやくざ者を見ていた女将が、とりあえずこの人の話を聞こうと思ったのはこの瞬間だったんじゃないかと思うほど、弥太郎の手のぬくもり、あたたかさが舞台に満々と広がった。

ほの暗い篠原演芸場の額縁のなかに、弥太郎、お小夜、女将の三人が、鄙びたほこりっぽい街道沿いに、それぞれぽつんぽつんと居る。
その光景そのものに、なんとも「お芝居らしい」情趣があった。


さて、このシーンも、おそらく「ああ!あの場面ね!」とすぐに了解する人も多いだろうというほど、『関の弥太っぺ』は言わずと知れた長谷川伸の名作で、大衆演劇でも定番のお外題だ。
ただ、大衆では中村錦之助主演の映画を元にしていることも多い。
原作と映画版で、ものすごーく違う点が実は一つある。

それは、弥太郎の相棒になる森介が原作ではそのまま相棒として共に土地を後にするが、映画版では弥太郎に泣く泣く殺されてしまうのだ。

なんで殺されるって、森介がお小夜ちゃんに本気になりすぎてカタギの彼女とその家族の身を脅かすようなことを言ってしまうからなのだが、たしかにこれはドラマチックだし、森介自体の寂しさもよく伝わる演出なので、彼の存在感は増すかもしれない。

ただ、全体の印象としてはかなりウェットになる(ちなみにお小夜の父を殺したのも結果として森介で、その事実を知って彼は動転するのだが、これも原作にはない設定)。
長谷川伸という作家さんの作風は、その荒涼としたザラザラしたところにあると思っているので、映画版だと原作の肌触りとは少し違った風合いの作品にはなるなぁと思っていた。


さて、美松の当芝居の配役は、弥太郎に特別出演中の藤川雷矢さん、森介に座長の松川小祐司さん。

あたたかみをたたえた上背のある雷矢さん弥太郎、はしっこく動く華奢な小祐司さん森介。
この対照的な柄だけで、おのずと物語が生まれそうなふたりだ。

雷矢さんの弥太郎はもう、眼福、耳福そのもの。
弥太郎という役は、一歩間違えば、ハードボイルド一辺倒(その先のナルシシズムも含めて)になりかねない。そこに、草のにおいのする朴訥さ(その先のお人よしっぷりも含めて)が付与されて、そのピュアネスに幼いお小夜のピュアネスが呼応して、彼女にとって弥太郎は、父の似姿、忘れられない人になったんだろうなぁと実感できた。
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『藤川雷矢 名台詞を謳う』って各芝居の名台詞を山あげしまくるCDあったら買います。
※画像は昨年12月のもの。



一方の小祐司さんは、その熱、華でもって関東の大衆演劇界を牽引するひとり。そして昨今は特に、新作芝居を積極的に書き、その評判もすこぶる良い。
それを措いておいて、小祐司さんを一人の役者さんとして観たとき、私は彼に通底する「軽み」がとても得難いと思っている。
大衆演劇はとかく、重く、ウェットになる。もちろんそれが求められる芸能でもあるが、ベターッとした空気オンリーの閉塞感はたまらない。その停滞っぷりはおそらく一見さんをも遠ざけてしまう。でも、小祐司さんはそこに颯爽と風を吹かせられる役者さんだ。
近年の大ヒット作(と言っていいでしょう)『弁天小僧リオーガナイズ』シリーズの1、クライマックスの立ち廻りで弁天が上手から下手へとひらりと身をかわして刀を構える姿、あの「ひらり」が、緋色の襦袢の鮮やかさとともに小祐司さんの身上と感じられた。

そんな小祐司さんの森介は、飄々として憎めない、愛すべき人だった。
忍の一字で黙して語らずの弥太郎と比べ、森介はよくしゃべる。小祐司さんの、ちょっと高めの甘くすがれた声音、そのさらっとした質感は、長谷川伸の劇世界にぴったりだった。
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写真を撮るたび「顔がいい!!」とうっとりする。近年はパワーに溢れてますます美しくなった。
※画像は昨年12月のもの。



そして、ここの(というかおそらく雷矢さんが立てたのではないかと推察するので藤川劇団の)『弥太っぺ』は、原作どおりで森介を殺さない!
自分の身を恥じた森介はわざと討たれようとするが、弥太郎は優しくそれを許し自分たちを「お神酒徳利、下駄なら一足」と表す。

というか、このバージョンで弥太郎は森介を殺せるわけないのだ。なぜなら、森介は死んだ妹の恋人だった男だから。
もちろん、この設定は原作にはない。芝居中も、その関係性はちらっとしか語られない。そのさりげない情緒が、また「大衆演劇で観る長谷川伸」という雰囲気があって心地いい。


ところで、冒頭に書いた「お芝居らしいシーン」とはどういうものを指すのか、自分自身も実はよくわかっていない。
でも、長谷川伸のお芝居にはやっぱりそういうシーンが多いなぁと思い返していたら、長谷川のお弟子だった平岩弓枝さんの文章に手が止まった。

先生との会話の大半は雑談であった。だが、その中に語られたものは、情感にあふれた、みずみずしい、人間の心であった。人が生きるということの美しさ、哀しさ、醜くさ、冷たさ、いさぎよさ、楽しさ、面白さを、理屈でなく、観念でなく、それこそ物にふれ、人にふれ、作品にふれてさりげなく、しかし心をこめて教えて下さった。
先生はよく情感という言葉を使われた。
恋愛小説を書けとはいわないが、情感のある小説を書けるようになるのだよ、とか、君の書く台詞は情感がないぞ、とか、その人間描写には情感が欠けているよ、とか、よく指摘された。

長谷川伸全集』第十六巻・月報(朝日新聞社

「情感」。
そして、この語からまたもう一説のとある言葉が浮かんだ。

それは、歌舞伎の三題名作のうちの一つ『仮名手本忠臣蔵』九段目について、十三代目片岡仁左衛門さんが語った言葉だ。
この一段を全段中でもっとも「劇の美しさ」がある、と言う仁左衛門さんは、その理由を、一見敵対する関係にある人々が実はそれぞれの幸せを願って行動する――「というのもこれ、情ですわな。物語の総てが美しい」とし、こう続ける。

人間の心の美しさと景色を合わして、こんなに美しい幕はない、というのが九段目という芝居ですなあ(略)風情のある幕……風情のぜいは情という字やからねえ
関容子『芸づくし忠臣蔵』(文藝春秋


袖擦りあう程度の、名もない関係。
一陣の風はパッと舞ってつむじ風を起こすけど、次の瞬間にはもうそこにはなにもない。
でもその一瞬、人と人とがそれぞれを思い合って、その「情」が「風情」を生む。

あの場面が忘れられないものになったのは、そうか、そこにさりげなく「情」があったからかと、それを紡ぐ弥太郎のあの大きなやわらかい手を思い出しながら、今日も「お芝居らしいシーン」を求めて私は劇場に通う。



幸せはそこにある:南ファミリ―劇団@新道しるべ(9/19)

2021年も残すところ数時間。
ツイッター上では、大衆クラスタの皆さんの「今年のベスト芝居」などがつぶやかれ、そうすればおのずと自分の1年の観劇生活も振り返るというもの。
涙しどどに感動したお芝居、ひーひー笑い転げたお芝居、舞台なめてんかぁ! と腹立ったお芝居(笑)などいろいろあるけど、幸せ観劇体験ベスト1はぶっちぎりであの劇団。

香川はまんのう町に拠点を置く、南ファミリ―劇団です!!!

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車がびゅんびゅん走る街道沿いにある「新道しるべ」。琴平駅からは車で5分程度。


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役者幟や看板がなければ、この落ち着いた佇まいの建物のなかに劇場が広がってるとはたぶん思わない。ワクワクしてきた……!

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ロビーには座員さんたちの写真がずらり!初見の人間にはありがたいし、なによりテンション上がる!

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パリ公演でのお写真も。凱旋門をバックに二代目と三代目座長。

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カギを開けてしまう桃太郎くん(1歳)。

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会場の様子。整然としたセンター、という趣で、センター慣れしている関東民はおのずと落ち着く雰囲気。

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きょうだいの末っ子、ご存じ美山で活躍中の花太郎さんのタぺもちゃんと飾られているのがほほえましい。


ロビーに入るなり、劇団側の「楽しんでもらいたい」精神があふれていて、私はいろんなゾーンに足を踏み入れるたびに、「きゃーー!」とか「ぴゃーー!」とか興奮のあまり奇声をあげていた。
固有の劇団の本拠劇場、ということは、その劇団の色で完全に構成された空間であるわけで、いわばここは「南ファミリ―劇団ランド」。そうなると、まだ見ぬ役者さんたちのタぺも、ミッキーやミニーのそれのように手を振りたくなるような慕わしさが湧いてくるというもの。

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公演はお食事とセット。天ぷら・お刺身・煮物……と品数多め♪
おなかを満たし、体の芯がほどけてリラックスしたところでお芝居スタート!

今月(月替わり)のお芝居は『涙の舞扇』。丘さくらさんと丘すみれさんのW主演!女優さん主演のお芝居は嬉しい! 旅役者でありながら実は……という役どころのおふたりはとても溌剌としていて、ほかの座員さんも皆、ともかく誠実さほどばしるお芝居をされる。

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三代目座長・山口英二朗さんはキーになる隠密の役。口上での話す感じがもう、好青年のかたまり。
お芝居の要で客席の涙を誘う存在だった若君・松千代を勤めたのは座長の長女・丘らんちゃん。真ん中でばっちりポーズを決めているのは駐車場に出てしまう座長の長男・桃太郎くんだ!(カメラの気配を感じたらこのポーズって将来有望すぎるだろ)


それではショーのスタート!
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英二朗座長の女形はめちゃくちゃかわいい!!
なんというか、媚びとかあざとさとかゼロの天然の華のかわいさ。

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丘たんぽぽさん。明治の美人画みたいな嫋々たる風情。

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丘美智子さん。二代目座長のお母さま。
お芝居でも乳母の役をきっちり勤められていた。

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山口月太郎さん。きっかりとした「芸格」という文字が浮かぶ。

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持ち前の爽やかさで魅せる座長のポップス。

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山口金太郎さん。この満開の笑顔!

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丘すみれさん。抒情的な風情をたたえていて、いろんなお役が観たい!と思わせる女優さん。

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山口雪太郎さん。ほっそりとした姿の美しさ。

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座長の股旅! 股旅ラバーの私&友人歓喜

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月太郎さんとすみれさんの梅川忠兵衛。お芝居でもできそうなドラマチックさ。

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丘さくらさん。はじけるような笑顔がステキ。
宝塚星組の娘役・有沙瞳さんに似ている(好き♡)! と気づいてからは余計ドキドキした。

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たんぽぽさんと山口鯉太郎さんの姉弟舞踊。存分に決まっていたところへ――……
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キザったフードの人が割り込んできて……
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ジャジャーン! おふたりのお父さま・副座長の山口京之介さん。
超あるある展開でオチわかっているのに、フード取れた瞬間、爆笑してしまった(笑)。

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二代目座長の奥さまであり七人きょうだいのお母さまの丘奈々さん。
やわらかく豊かな笑顔。

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三代目座長の次女・丘すずちゃんとらんちゃん&未来の四代目・桃太郎くんの真剣なまなざし。

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二代目座長・扇子家玉四郎(せんすやたましろう)さんと3人のお孫さんたち。

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足の怪我のため舞踊は踊られていなかったけれど、お芝居で少し出られても目の覚めるような口跡のよさ! 明るくカンカンと天に抜けるような声音に五代目の富十郎さんを思い出したりして。お父さまの初代・山口英二朗さんの口跡も今に伝えられる素晴らしさだったそうで、親子三代で「一、声」を揃えられている。

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粋に賑やかにラスト!


南ファミリ―劇団の詳しい来歴や活動についての充実した記事は、下記から↓
二代目・三代目座長の活き活きとした語り口が堪能できる!
大衆演劇の入り口から[其之四十二] 親子4代、一家族が40年間芝居を続ける場所~「南ファミリー劇団」ロングインタビュー in 香川県まんのう町


大衆演劇は「旅をかけるもの」というイメージが強いなか、南ファミリ―劇団はこの土地、この場所で週末に公演をしている。
普段は皆さんそれぞれの家に住み、それぞれの仕事に勤しみ、日曜日になるとここに集まって芝居をし、踊りを踊る。

私はその在り方に、とてつもない豊かさを感じる。
だって、普段オフィスで顔を突き合わせている同僚が、週末にはかっこいいお侍や可憐なお姫さまに変身するなんてたまらなく素敵だ!

「舞台」が日常でありながら非日常でもある南ファミリ―劇団の皆さん。
だからなのか、座員の方々は、舞台に対して常に新鮮に、丁寧に、空間まるごとを「大切なもの」として接しているように見えた。

そしてそれは、お客さんにとってもそうだ。
お芝居の最中、敵役が刀を持って若様の背後に忍び寄るシーンで、「あっ、後ろ後ろ!」という切羽つまった声が客席から漏れた。
舞踊ショーでは、皆それぞれのペンライトを持ち寄って嬉しそうに振っていた。

大衆演劇が隆盛を誇る大阪は、劇場がひしめいていて、いうなれば選り取り見取り状態。
一方、ここまんのう町にある芝居小屋は新道しるべだけ。

あそこに行けばおいしいものが食べられて、楽しいお芝居、綺麗なショーが観られるよ――。
それがどれだけ日常を生きるうえでの希望になっているか、ニコニコとペンライトを振るお客さんたちの姿を見て、胸が熱くなってしまった。

コロナの影響のため、南ファミリ―劇団が2020年で活動休止と聞いて、ああついに見られなかった……とガックリした。
けれど、存続を望む声が強かったのだろう、今年1年間は公演継続となったと聞き、すかさず、今だ! と飛び込んだ今回の遠征。
そういう完全な初見のお客に過ぎない私が、座員さんのまじりっけなしの笑顔、お客さんのピュアな居住まいを目にし、ここにいるすべての人のためにどうかどうかずーっと続いてほしい……! と願わずにはいられない景色がそこには広がっていた。

舞台に立つ演者の人たちと、客席に座るお客さんたちが、同じくらいの温度でこの場所を愛してる。
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舞台とは、そこにいる人がそこにいる人へ、手づから手づへ渡すもの。
そんな「演劇」の原初的な風景が見られる空間。

人はそれを「幸せ」と呼ぶのです。