弥太郎の手:劇団美松『関の弥太っぺ』@篠原演芸場(1/5)

お芝居を観ていると、ときどき、あ、私このシーンずっと忘れないだろうな、と思う場面に出会うことがある。

それはもちろん、ここぞという見せ場、いわゆるしどころのある場面であることが大半だ。けれど、そうではなく、本当にさりげない、芝居の主筋には関係ないシーンでもなぜだか心に残り続ける、ということはある。そういうシーンを私は、「お芝居らしいシーン」と呼んでいる。

2022年1月5日、お正月気分もまだ冷めやらぬ篠原演芸場で、そんなシーンに出会えた。
芝居は『関の弥太っぺ』、演じるのは劇団美松だ。

序盤、父に死に別れ独りになったお小夜を、彼女の祖母が切り盛りする旅籠へ連れていく弥太郎。
戸惑う祖母の女将に事情を説明する弥太郎は、行きがかり上、お小夜の父の最期をも話すことになる。
話しかけた途端、幼いお小夜を見てハッとする弥太郎は、「ちょいとごめんよ」と言って、小さな子に知らせるにはあまりにつらい顛末を、お小夜の両耳をふさぎながら語る。
話すうち、つい力がこもってしまったのだろう、やがてお小夜が「おいちゃん痛いよう」と訴えると、「おお、ごめんよ」と弥太郎はパッと手を放す、このシーン。

お小夜演じる桜川幸梅さんの小さな顔が、雷矢さん演じる弥太郎の大きな両手で包まれる。

本当に何気ないシーンだけれど、改めて、弥太郎という人間の優しさ、人の傷に即座に気づいて「しまう」性根が出ていて、なんて素敵な情景だろうと胸打たれた。
状況がわからず怪訝な顔でやくざ者を見ていた女将が、とりあえずこの人の話を聞こうと思ったのはこの瞬間だったんじゃないかと思うほど、弥太郎の手のぬくもり、あたたかさが舞台に満々と広がった。

ほの暗い篠原演芸場の額縁のなかに、弥太郎、お小夜、女将の三人が、鄙びたほこりっぽい街道沿いに、それぞれぽつんぽつんと居る。
その光景そのものに、なんとも「お芝居らしい」情趣があった。


さて、このシーンも、おそらく「ああ!あの場面ね!」とすぐに了解する人も多いだろうというほど、『関の弥太っぺ』は言わずと知れた長谷川伸の名作で、大衆演劇でも定番のお外題だ。
ただ、大衆では中村錦之助主演の映画を元にしていることも多い。
原作と映画版で、ものすごーく違う点が実は一つある。

それは、弥太郎の相棒になる森介が原作ではそのまま相棒として共に土地を後にするが、映画版では弥太郎に泣く泣く殺されてしまうのだ。

なんで殺されるって、森介がお小夜ちゃんに本気になりすぎてカタギの彼女とその家族の身を脅かすようなことを言ってしまうからなのだが、たしかにこれはドラマチックだし、森介自体の寂しさもよく伝わる演出なので、彼の存在感は増すかもしれない。

ただ、全体の印象としてはかなりウェットになる(ちなみにお小夜の父を殺したのも結果として森介で、その事実を知って彼は動転するのだが、これも原作にはない設定)。
長谷川伸という作家さんの作風は、その荒涼としたザラザラしたところにあると思っているので、映画版だと原作の肌触りとは少し違った風合いの作品にはなるなぁと思っていた。


さて、美松の当芝居の配役は、弥太郎に特別出演中の藤川雷矢さん、森介に座長の松川小祐司さん。

あたたかみをたたえた上背のある雷矢さん弥太郎、はしっこく動く華奢な小祐司さん森介。
この対照的な柄だけで、おのずと物語が生まれそうなふたりだ。

雷矢さんの弥太郎はもう、眼福、耳福そのもの。
弥太郎という役は、一歩間違えば、ハードボイルド一辺倒(その先のナルシシズムも含めて)になりかねない。そこに、草のにおいのする朴訥さ(その先のお人よしっぷりも含めて)が付与されて、そのピュアネスに幼いお小夜のピュアネスが呼応して、彼女にとって弥太郎は、父の似姿、忘れられない人になったんだろうなぁと実感できた。
IMG_3278
『藤川雷矢 名台詞を謳う』って各芝居の名台詞を山あげしまくるCDあったら買います。
※画像は昨年12月のもの。



一方の小祐司さんは、その熱、華でもって関東の大衆演劇界を牽引するひとり。そして昨今は特に、新作芝居を積極的に書き、その評判もすこぶる良い。
それを措いておいて、小祐司さんを一人の役者さんとして観たとき、私は彼に通底する「軽み」がとても得難いと思っている。
大衆演劇はとかく、重く、ウェットになる。もちろんそれが求められる芸能でもあるが、ベターッとした空気オンリーの閉塞感はたまらない。その停滞っぷりはおそらく一見さんをも遠ざけてしまう。でも、小祐司さんはそこに颯爽と風を吹かせられる役者さんだ。
近年の大ヒット作(と言っていいでしょう)『弁天小僧リオーガナイズ』シリーズの1、クライマックスの立ち廻りで弁天が上手から下手へとひらりと身をかわして刀を構える姿、あの「ひらり」が、緋色の襦袢の鮮やかさとともに小祐司さんの身上と感じられた。

そんな小祐司さんの森介は、飄々として憎めない、愛すべき人だった。
忍の一字で黙して語らずの弥太郎と比べ、森介はよくしゃべる。小祐司さんの、ちょっと高めの甘くすがれた声音、そのさらっとした質感は、長谷川伸の劇世界にぴったりだった。
IMG_3263
写真を撮るたび「顔がいい!!」とうっとりする。近年はパワーに溢れてますます美しくなった。
※画像は昨年12月のもの。



そして、ここの(というかおそらく雷矢さんが立てたのではないかと推察するので藤川劇団の)『弥太っぺ』は、原作どおりで森介を殺さない!
自分の身を恥じた森介はわざと討たれようとするが、弥太郎は優しくそれを許し自分たちを「お神酒徳利、下駄なら一足」と表す。

というか、このバージョンで弥太郎は森介を殺せるわけないのだ。なぜなら、森介は死んだ妹の恋人だった男だから。
もちろん、この設定は原作にはない。芝居中も、その関係性はちらっとしか語られない。そのさりげない情緒が、また「大衆演劇で観る長谷川伸」という雰囲気があって心地いい。


ところで、冒頭に書いた「お芝居らしいシーン」とはどういうものを指すのか、自分自身も実はよくわかっていない。
でも、長谷川伸のお芝居にはやっぱりそういうシーンが多いなぁと思い返していたら、長谷川のお弟子だった平岩弓枝さんの文章に手が止まった。

先生との会話の大半は雑談であった。だが、その中に語られたものは、情感にあふれた、みずみずしい、人間の心であった。人が生きるということの美しさ、哀しさ、醜くさ、冷たさ、いさぎよさ、楽しさ、面白さを、理屈でなく、観念でなく、それこそ物にふれ、人にふれ、作品にふれてさりげなく、しかし心をこめて教えて下さった。
先生はよく情感という言葉を使われた。
恋愛小説を書けとはいわないが、情感のある小説を書けるようになるのだよ、とか、君の書く台詞は情感がないぞ、とか、その人間描写には情感が欠けているよ、とか、よく指摘された。

長谷川伸全集』第十六巻・月報(朝日新聞社

「情感」。
そして、この語からまたもう一説のとある言葉が浮かんだ。

それは、歌舞伎の三題名作のうちの一つ『仮名手本忠臣蔵』九段目について、十三代目片岡仁左衛門さんが語った言葉だ。
この一段を全段中でもっとも「劇の美しさ」がある、と言う仁左衛門さんは、その理由を、一見敵対する関係にある人々が実はそれぞれの幸せを願って行動する――「というのもこれ、情ですわな。物語の総てが美しい」とし、こう続ける。

人間の心の美しさと景色を合わして、こんなに美しい幕はない、というのが九段目という芝居ですなあ(略)風情のある幕……風情のぜいは情という字やからねえ
関容子『芸づくし忠臣蔵』(文藝春秋


袖擦りあう程度の、名もない関係。
一陣の風はパッと舞ってつむじ風を起こすけど、次の瞬間にはもうそこにはなにもない。
でもその一瞬、人と人とがそれぞれを思い合って、その「情」が「風情」を生む。

あの場面が忘れられないものになったのは、そうか、そこにさりげなく「情」があったからかと、それを紡ぐ弥太郎のあの大きなやわらかい手を思い出しながら、今日も「お芝居らしいシーン」を求めて私は劇場に通う。