大衆演劇の魅力ってなんだろう?と改めて考えてみた:新風プロジェクト革新 #0

私は歌舞伎というものは、こういうものだと思っていたんです。つまり非常に美しい花である。この美しい花はどこか毒々しいのである。気味が悪い、それも綺麗なチューリップやバラならいい。けれども何か不思議な牡丹のような花、あるいは不気味は食虫類のような花、南米のアマゾンの流域にあるような不気味な花というような感じがしていたんです。
そうだとすると、その花を養うものの後には肥料がなければならない。その肥料はどこから出てくるか。土の中から出てこなければならない。その土の中には何が埋っているのだろうか。あるいは見るも恐ろしい動物の死骸が埋っているかもしれない。そして無気味な昆虫の死骸が積み重なっているかもしれない。ひょっとすると人間の死骸が埋っているかもしれない。梶井基次郎の小説に、桜の花は美しいけれども、桜の花を見るたびに、あの桜の根の下には、人間の死体が埋っている感じがする、という変な短編がありますが、そんな幻想を歌舞伎は抱かせるのです。

三島由紀夫(講演)「悪の華――歌舞伎」『決定版 三島由紀夫全集36』(新潮社)
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◆風を起こす
2022年5月、ツイッター上にこんなアカウントが作成されました↓
新風プロジェクト革新#0

どうやら、篠原演劇企画がまた新たな試みを始めるらしい……!
関東の大衆演劇ファンは色めき立ちました。

2年以上に及ぶコロナ禍で舞台芸術がどのジャンルも打撃を受けるなか、等しく傷を負っているであろう篠原演劇企画はしかし、22年に入り、「篠原演芸場創立70周年記念企画  新風プロジェクト」と題し、脚本を一般公募し劇化、また、外部脚本家による特別公演(同時に、「新風」と対置される「原点回帰」公演も企画)等、積極的に新規企画を打ち出しています。
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本プロジェクト下で3月に行われた「春の若手演劇祭り」@浅草木馬館。新調された幕が清々しい。
お芝居は梅川忠兵衛を骨子とした『夢の夢とて』(脚本:渡辺和徳)。


どのジャンルでも起こり得ることでしょうが、そこそこ長くその媒体と付き合っていると「運営」側への不満というものは溜まるもの。お客というのはどこまでもワガママなものですが、あーだこーだお気楽にブツブツ言えるのもまたお客の特権です。
私も、とても愛していたとあるジャンルの興行会社にさまざまな意味で失望した経験があります。興行会社が「お商売」しなければならないのは百も承知だけれど、それだとて、興行の打ち出し方が目先の利益優先で場当たり的すぎる、このジャンルをどう発展していきたいかの方向性、もっと大きく言えば思想が見えない、とガッカリの連続。

そういう思いをしてきた人間からすると、篠原演劇企画のこの、新しいことを積極的に!外部に開いていく!という姿勢は、とても心強くまぶしいものでした。
この偉大なるマンネリズムで動いている大衆演劇界(私はそこも愛していますが)にあって、「新たな風」を起こすことは、ジャンル自体の活性化に必ずつながる。ああ、この芸能は生きている!!と、新企画の報を聞くたび胸躍りました。


◆女性の座長がいるということ
そして、2022年7月21日(木)。本プロジェクトの目玉であろう、「新風プロジェクト革新 #0」公演がシアターミクサで行われました。

お芝居は『円環か螺旋か
』(脚本:坪田塁)。
2022/7/29(金)12:00〜8/4(木)23:59の間アーカイブ配信チケットで観ることができます↓


新作ですし、上記アーカイブ配信があるので、お芝居の内容以外の感想を簡単に(私は生でなく配信組であったことも付記します)。

まず、これだけのスター役者に適宜見せ場を作る台本作りは、相当苦慮されただろうなぁ、としみじみ。数多並ぶ、総座長・座長・若座長・花形……。本来だったら、このメンバーを4組くらいに分けて4本程度お芝居ができるはずです。
演出は、3月上演の『夢の夢とて』同様、劇団暁の三咲暁人若座長が担当されたそう。大衆以外の多くの舞台も観ている方だからかもしれませんが、そう広くない舞台を屋台も含め縦横無尽に使っていて、すでに手練れ感あり!安心して観られました。

また、物語の芯となる吉原の花魁・珠己を演じたのが女性の座長である、橘鈴丸さんだったことは快挙!
これは広く演劇界全体に共通していることですが、ジャンルによって微妙な差異があるとはいえ、演劇の主観客は圧倒的に女性が多く、一方、創作側はまだまだ男性が多数という状況になると、作品の主役は男性の役者が担う傾向が強いです。
私はもともと「女性の表象」に興味があったため、歌舞伎なら女形、宝塚なら娘役、大衆演劇なら女優さんに惹かれる傾向があり、特に大衆演劇の女優さんはとんでもない実力&魅力を兼ね備えている人も少なくないのだからもっともっとフューチャーされてほしい!と思うこともしばしば(とはいえ昨今は、個々の劇団で、少なくとも10年前より確実に女優さんにスポットが当たる機会が増えているとは思います)。

そうしたなか、この記念的な作品で、女性の座長として奮闘する鈴丸さんにスポットが当たったのはとても大きな意味のあることだったと思います。
余談ですが、私が某大学で大衆演劇についての話をさせていただいたとき、「大衆演劇って女でも座長できるんですか!?」と学生さんに驚かれたことがあります(女優さん志望の学生さんでした)。世の中のそういった認識を思うにつけ、外に開いていく、という意識を持った公演でこの配役は、業界自体の風通しの良さを感じさせるものでもあると思います。


◆「架け橋」としての外部公演
と、嬉しい側面があったのですが、ただ観劇後、私は改めて、「大衆演劇とはなんなんだろう?」と考えざるを得ませんでした。
歌舞伎には、「歌舞伎役者がやったらなんでも歌舞伎になる」という言葉あります。いや、ありました。
これはおそらく、現代とは比べものにならないくらい「歌舞伎」という芸能の色を濃くまとった役者さんがかつてはいて、そういう人たちは歌舞伎以外のものをやってもどこからしら常にその色が滲んで歌舞伎になる(なってしまう)、という意味だったのでしょう。けれど、この言葉も、たとえば当代の梅枝さんが数年前に、もう僕たち世代にその言葉は当てはまらない、と喝破されていました。

今回の舞台は、テイストとしては、今もっとも隆盛を誇る2.5次元のお芝居に近いものでした。魅力的な役者さん、華やかな衣装、平易な台詞回しと、企画どおり「一見さん」でも抵抗なく受け入れられる舞台だったと言い換えてもいいでしょう。

ただ、これは私たちが普段観ている「大衆演劇」と同じものなのか?この芝居を大衆演劇の役者さんがやる意味は?
歌舞伎同様、「大衆演劇役者がやったらなんでも大衆演劇になる」という時代では、おそらくないでしょう。
となると、「外に開いていく」ときに、大衆演劇の魅力とはなんぞや?果ては、大衆演劇とはなんぞや?ということを、企画・創作側が意識的に思考し、それを明確に打ち出す必要があります。
なぜなら、もっとも理想的な円環は、こういった外部向けの公演を観た観客が、通常の大衆演劇の公演の常客になることだからです。
大衆演劇界にもいまだ根強いファンが多い十八代目勘三郎さんは、仮設小屋での上演である「平成中村座」公演を定着させましたが、やはり「平成中村座は行くけど、歌舞伎座にはほぼ行かない」という観客が一定数いました。
基盤はあくまで通常公演だからこそ、その芸能自体の魅力を見極め、そこを濃く抽出したものを外向けの意匠にする、という営みを経る必要があるのではないでしょうか。


◆「大衆演劇の魅力」を探って
とはいえ、大衆演劇とは時代のものをなんでもうわばみのように飲み込んでモノにしていく、貪欲な芸能、言い方がを変えれば、「古典化しきらない」芸能です。
だからこそ、大衆演劇の魅力とは〇〇である、とか、大衆演劇の特質は〇〇だ、とか、たいへん定義しにくいのも事実。十人いれば十色の「〇〇」があるでしょう。

私としては、いろいろな芸能を観て大衆演劇にたどり着いたとき、ともかく驚いたのは役者さんのお芝居レベル&チャームの高さだったので(お芝居レベルについてはもちろん玉石混交ですが、高い人のレベルは筆舌に尽くしがたいです)、非常にプリミティブですが、じっくりお芝居を観てもらえれば一定数のお客さんは獲得できると信じています。その意味でも、こうしたスター芝居以外に、一劇団並みの人数構成での公演も期待しています。
あとは、古典化しきらないなかでも生き残っている「山あげ」の技法は、それをあえて避ける役者さんがいたとしても、大衆演劇の大事な生命であることは間違いありません。朗唱法が存在するという事実は、日本の芸能として位置づける際にも大きく作用することでしょう。
そうした、「大衆演劇ならでは」のものをうまく使って現代ナイズしていくのも一つの方法ではないでしょうか。

そしてもっとも大事なお芝居内容。
これはもう、多くの大衆演劇に伝わる作品を観ていただき、その魅力をそれぞれで感じてもらうほかありません。
本企画には、現在のところ、坪田塁さん、渡辺和徳さんの二名の脚本家が招聘されています。
この人たちが「外」から来た人であることは大事なことです。ですが同時に、一大衆演劇ファンとしては、お二人には大衆演劇の常打ちの芝居をこれからたくさん観ていただき、その魅力が凝縮された作品を望みます。


◆この芸能を信じる
冒頭にあげた文章は、昭和47年、国立劇場歌舞伎俳優養成所が開所した際、同劇場の理事であった三島由紀夫が第一期研修生に向けた講演で語った言葉です。
歌舞伎と大衆演劇は違う芸能ではありますが(ただ、おじいちゃんと孫くらいの関係ではある、ととある座長さんが言っていました)、私は、ここで三島が言う「花」「幻想」が、現代の大衆演劇にはまだあると思っています。
外に開いていくとき、もっとも大切なのは、芸能の魅力を信頼し続けることでしょう。
大衆演劇の軸がお芝居ならば、大衆演劇のお芝居の力を作り手側が信じ続けなければなりません。問い直しを含めつつ、常に信頼していくこと。
そして、その信頼が揺らがないよう、この芸能の魅力を、必要な際は批判も含めつつ、言葉に、行動につなげていくことが、私たち観客の役割なのです。

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もちろん私は歌舞伎の改良ということを全然否定するわけではありませんけれども、歌舞伎というものは、悪に繋がっているということを信じますから、ああ、いくらでもいくらでも綺麗にしてごらん、綺麗にしたら何が失くなるか、よく考えてごらんというより他にないんです。
三島由紀夫(講演)・同上