権次の義侠心:劇団炎舞『上州土産百両首』@けやき座(4/29)

大衆演劇を観て数年、という人であれば1回くらいは『上州土産百両首』は観たことあるだろう。
O・ヘンリーの小説をもとに昭和初期に歌舞伎で初演された本作。主演は、六代目尾上菊五郎と初代市川吉右衛門という大名優同士。
けれど、物語内容的に当の歌舞伎よりも大衆演劇のほうが合うようで、歌舞伎では定番狂言とはいえないが大衆演劇では多くの劇団のレパートリーになっている。

話の筋としてはごくシンプルで、とある組の下っ端だった正太郎と兄弟分の牙次郎とがカタギになろうと3年後の再会を約束し別れるが、正太郎はかつてのヤクザ仲間の権次を殺めることになってしまい、再会後、岡っ引きの家で飯炊きをしている牙次郎とともに番屋に名乗り出る、というもの。
兄貴分の正太郎と、ちょっとドジな牙次郎の関係性に焦点が当てられた作品だ。
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終演後の口上で、正太郎を演じた炎鷹さん。
後ろに見えるのは、新人さんの橘苺夢さん。



ただ私は、正太郎が転落するきっかけとなる、敵役の権次に注目してしまう癖がある。
本作を始めて観たのはそれこそ歌舞伎(2014年1月浅草公会堂)だったのだが、そのときの権次(歌舞伎の役名はみぐるみ三次)は「わかりやすい敵役」であり、正直特に際立った印象はない。

一方、大衆演劇で本作を始めて観たのは、2015年11月、劇団炎舞の橘鷹勝さんの20歳の誕生日公演。
このときの感想は、当時のブログにも書いたが、この権次のキャラクター造形に驚いたので、私はそれ以後権次ウォッチャーになっているのだと思う。

当時の記事にははっきりとは書いていないが、炎舞版は正太郎の人物像がいなせでシャープというよりやわらかくて優しいのと、権次を演じていたのが男っぽい色っぽさをたたえた北城嵐さん(ゲスト出演)だったため、ずばり権次×正太郎、もっと直截に言えば、このふたりはつきあっていたでしょう!?としか思えなかった。。
権次がなにかっちゃ言う「地獄」比喩(「俺はお前を許さねぇ。地獄の果てまで追ってやる」「(呼び出しの文面に)地獄の使いより」)も、正太郎がただカタギになったから許せない、みたいなひがみの範疇からは逸脱してる。私怨てか情怨があるな!っていう。
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嵐さん×炎鷹さん。このときのつくばではともかくこのカップリングに大興奮してた!


まぁそれ以後、他劇団で同作品を観てもこの2人がそんなふうに見えることはないわけだが、そういう「読み」だって可能な芝居なんだな、という気づきがこのときの上演にはあった。

そして7年とちょっとたった今月、やはり劇団炎舞でまたこの作品を観た。
その年月の間で劇団の地図はまた新しく塗り替わり、かつて弟分の牙次郎を演じていた花形の橘鷹勝さんが権次に、牙次郎は橘あかりさんが演じている。

しかし正直に告白すると、牙次郎のあかりさんが出てきた瞬間、あ、そうか、年齢的なことを考えたら必然権次を鷹勝さんがやるのか……権次を……、としばし戸惑ったように、この配役を頭から受け入れられていたわけではない。
あかりさんの牙次郎は、個人舞踊などで見せる﨟󠄀たけた美しさとはまた違ったマスコットにしたいような可愛さ全開で、うわぁこの牙次郎だったら正太郎たまんないだろうな、と序幕から感じさせた。
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あかりさんの舞踊は技術が高いのはもちろん、リリカルかつ
抽象度と具象度のバランスがめちゃよくて「物語」としてとても見やすい。



けれど、権次は……。
鷹勝さんという役者さんは、常にアイデアに溢れていて、観客側に自然に「希望」を抱かせるという点で稀有な芸風だと思うが、彼を一度でも観たことがある人はわかるだろう、超人懐っこい犬がそのまま人間になった、みたいな明朗な風情の役者さんだ。
つまり、あのひねくれきってひがみ根性丸出しの権次のニンではないのでは……というのが一番の懸念だった。
それに重ねて、繰り返しになるが私のなかには、かつて嵐さんのセクシー権次によって開かれた新しい世界が確固として存在する。そして、この作品をその後何度となく他劇団でも観ているが、このときの「新鮮さ」に匹敵するものとはまだ出会ってなかった。

そんな心持ちだったので、「いつもの『上州土産』」だろうな、と思って見始めたのだ(と書くとめちゃくちゃ失礼な言いぐさのようだが、作品自体しっかりしているので「いつもの」でも十分おもしろいことは織り込み済みだ)。

ところが、である。
序幕で、正太郎がカタギになることを決意し、親分に申し出る。
親分は快く了解するが、収まらないのは権次だ。
親分が去ったあと、権次は正太郎に、親分が許しても俺はてめえを一生許さねぇ、と詰め寄る。そのなかで、鷹勝さんの権次の「おめえのせいで牢屋にぶち込まれた仲間もいる」という一言がものすごく際立って聞こえた。
その瞬間、あ、鷹勝さんの権次はこういう人なのか!目から鱗が落ちた。
この権次が正太郎をあれほど憎むのは、お前の間抜けのせいでひどい目にあった仲間もいるなかでお前はぬけぬけとカタギになるのか、という、自分以外の誰かを思いやっている、自分以外の誰かが背景にある怒りだったのだ。
権次がはけたあと、牙次郎が、今の人はずいぶん感じが悪い、とぶつくさ言う台詞に対して、正太郎が「普段は優しいにいさんなんだ」という台詞も、こういう権次であればとても説得力がある。
つまり、この権次像は「橘鷹勝」という「陽」の持ち味が強い役者さんならではの、そのニンを活かしたオリジナルな権次になっていたのだ。
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イデアマンの鷹勝さんは、「新風」公演に興味津々の様子。
今回の関東公演中にご縁があればいいなぁ。



そして、こうなってくると、炎鷹さんの正太郎のピュアさにも意味が出てくる。
本作の正太郎は、牙次郎との対比を強調するため、粋でいなせな兄貴分、という役作りをする人のほうが多い。しかし、炎鷹さんの正太郎は、物腰もとてもやわらかく、言わば「しっかりとした牙次郎」と感じさせるところに特徴がある。

権次の、「お前のせいで仲間が」という台詞を聞いたあとにこの正太郎を見ると、なんというか、この正太郎は過剰にピュアなのだ。その瞳の美しさ、輝きは、とてもスリをしてきた人には見えない。それに加えて終始優しげでおっとりとした風情。
ああ、もしかしたらこの正太郎は、自身のピュアさゆえに人の足を踏んでいても気づかない人なのかもしれない、とこれまでとは別の風景が見えてきた。
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40代半ばに突入しようとは思えない若々しさを見せる炎鷹さん。
正太郎のピュアさがこんなに嫌味なく成立させられるのは、
元々そういう質を持っている役者さんだからかなと。



正太郎は悪くない。彼は人の好意をきっとそのまま受け取る裏表のない人なのだろうから。
でも、彼がいたのは切った張ったの侠客の世界だ。そういう「美しい鈍さ」を持った人間は生きづらいばかりか、そういう存在によって思いもよらない犠牲が出る世界。
にもかかわらず、「親分の好意」という幸運のみによって、そんな正太郎自身は泥のつかないままカタギの世界にあっさり旅立っていこうとする――そりゃ権次はやるせないだろうと、この作品を観始めて初めて私は彼に心を寄せた。

鷹勝さんの権次が無類によかったシーンがある。
3年後、上州の旅籠で、正太郎と親分、権次は思わぬ再会をする。立派な料理人となり、旅籠の跡取り娘と祝言の予定があることを親分は真正面から言祝ぐ。それにやはりなんのてらいもなく応じる正太郎。
このふたりの会話をじっと黙って聞いている権次。
口を真一文字に引き結んだ権次のまなざしは下を一点向いて離れない。その横顔から、かつての仲間、すなわち牢屋に入った者、果ては命を落としたであろう者の姿や、砂がこぼれるように一家から人がいなくなった現在の窮状――そんなこれまでの彼の来し方が浮かんでくるようだった。なにかに耐えている人間の顔だった。

その後、正太郎を呼び出した権次は蔵の中から100両取ってこいと要求する。その揉め合いで、ドスを抜いて「最初から金なんて関係ねえんだよ!」と正太郎に襲いかかる権次。
金がほしい、ではなく、お前だけ綺麗なままじゃ誰かが報われない、お前も一緒に泥にまみれろ、というのがこの権次の真の要求だったのだろう。
そして皮肉なことに、権次はみずからの命をもって正太郎を泥の中に引きずり落した。

けれど彼はきっと、地獄に向かう道中、してやったりと不敵な笑みを浮かべているに違いない。
権次の向かう先にはかつての仲間たちが待っている。