レイ子のゆくえ:新風プロジェクト革新 #1『寝盗られ宗介』再演@篠原演芸場(5/11)

大衆演劇版『寝盗られ宗介』
2022年から日本文化大衆演劇協会の主催で開始された新風プロジェクトは、お客さんからの脚本募集等でこれまでさまざまな新作を世に送り出していた。

しかし、その一連の企画のなかで、日本演劇界の有名作を大衆演劇役者が主体となって上演する、という試みがあった。それが、22年10月14日に篠原演芸場で行われた、つかこうへい作『寝盗られ宗介』の上演だ(便宜上、「篠原版」と呼ぶ)。
新風企画にスタートからコミットしている演出家の渡辺和徳さんが、つかさんの作品を主に上演する演劇ユニットである9PROJECTのメンバーであることから生まれたこの企画。

『寝盗られ』は有名作だが、恥ずかしながら私は今回が初見だった。
主演の宗介にスーパー兄弟の龍美麗さん、相手役のレイ子に9PROJECTの高野愛さん。
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再演の際のローチケのチケット特典である、公演ポスターのクリアファイル。


全国を旅回りする大衆演劇の北村宗介一座の座長宗介と内縁の妻・レイ子との関係性を中心に物語は紡がれる。だが、この作品の妙味は、一座の現在形の物語とこの一座が上演している劇中劇が織り混ぜられて進行していく点だ。


◆鳴らない携帯が鳴るとき
宗介座長か演じるのは、湯屋で働く下剃り宗介実は六代将軍徳川家宣。レイ子が主に演じるのは、宗介の妻で女郎のお志摩。

現実と劇中劇が錯綜するので初見だとわりと頭の切り替えが必要だが、美麗さん演出の篠原版は道具や背景幕をフルに使い、大衆演劇らしく具象表現で演出されていたのでとてもわかりやすかった。

宗介座長は妻のレイ子がほかの男と逃げても=寝盗られても、その相手の男(座員が多い)の面倒を最後まで見る変わり者。妻が逃げたと聞いてもどこか飄々としていて、今度は何ヶ月で戻ってくる?と聞くのがいつものパターン。
レイ子はたしかに移り気のように見えるが、まるでその逃避行は、彼女を「放任」という形で突き放しても戻ってくるかどうか、宗介のレイ子への試し行動のようにも感じられる。

そんな夫との関係に疲れたレイ子はついに、座員のジミーと一緒に一座を抜け、今度こそもう戻らない
、と宗介に告げる。

その言葉をまったく信頼しない宗介は、数ヶ月後、故郷の十和田で妻を親族や生まれ育った土地の人たちにお披露目すべくレイ子の名前を呼ぶが、彼女はなかなか現れない。
「俺のベタ惚れのかあちゃんよ!」――宗介の何度目かの呼び声、ドラムロールは鳴るが、スポットライトの先には誰もいない。

ついに諦めた宗介が舞台上に寝転ぶ。虚脱感が重くのしかかってくる。
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23年5月再演時口上の美麗さん。このお衣装が大衆演劇界随一
決まる人。それも宗介という役には必要なのかも、と実感。



初見だったので、レイ子は帰ってくるのか?こないのか?とドキドキしながら観ていた私がもっとも印象的だったのはここからだ。

自暴自棄になる宗介。
するとそこに、座員のジミー(彼は戻ってきたのだ)が携帯を手に、奥さんからです、といって駆け込んでくる。
その言葉にガバリと身を起こす宗介だがしかし、気づくとあたりはもうもうとスモークが立ち込めている。

喜びを全身から発する宗介が幕を開けろと叫ぶと、教会のような背景幕を背に、白い高い台の上に立つレイ子の姿が見える。
純白のシンプルなドレスを着た彼女は、振り向く形で薄くほほえんで宗介を見下ろす。
その彼女を仰ぎ見る宗介――幕。
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23年5月再演時口上の高野さん。最後のレイ子のお衣装で。
高野さんレイ子は、その強気のなかのいたいけさが、
美麗さん宗介が相手だとより表出してくる。



これを観た私は、あ、レイ子はもう戻らないんだ、死んだかどうかはわかんないけど、少なくとも最後のレイ子の姿は宗介の夢想だな、と思った。

だって、大量のスモーク+十字架の見える背景幕+白い高い台(篠原でこれが使われるときは、あの世とこの世の分かれ目、みたいな効果を表すためが多い)+ウェディングドレスにも見えるけど死装束にも見えるレイ子の衣装、とこれだけ要素が集まってる。
なにより、「ジミーの携帯」。

芝居の中盤、レイ子と出ていくというジミーが嬉しそうに、僕、携帯電話買ったんです!……でも誰からも一度もかかってきたことないんですけど……と、自分の携帯を座長に見せるシーンがある。

そのジミーの「5年間一度も鳴らなかった携帯」が「鳴る」
ジミーという人物のイマジナリーフレンド的雰囲気と相まって、この仕掛けはどう考えても現実世界とは思えなかった。
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23年5月再演時口上のジミーを演じた大五郎さん。
美麗さんが劇界一スーツが似合うなら、こちらは
劇界一つなぎが似合うと言っても過言ではない。



そして、この切なくもファンタジックなラストがとても気に入ったのは、なによりこの演出が、少女マンガ的な伸びやかな肢体を持つ美麗さんの(スーツ姿がこんなさまになるなんて!)、爽やかで甘やかな雰囲気にピッタリだったからだ。


◆帰ってくる?帰ってこない?
で、人間良いお芝居に出会うとその芝居を深堀したくなる。
ということで、この篠原版のすぐあとに、その直前に公演していた9PROの同作の配信を観た。
そこで衝撃の事実を知る。

レイ子本当に帰ってきてんじゃん!!

なんと、9PRO版は、最後レイ子が息せききって駆けつけているのだ。
わからなくなった私は、今度は戯曲『寝盗られ宗介'96/ロマンス'97』(三一書房、1997年)を借りてきた。

帰ってきてる!!
ていうか、「幸せにしてくださいね、わたし、おもいっきり甘えますから」ってセリフまで書いてある!

念じれば呼び寄せるのか、数週間後、ちょうど映画の『寝盗られ宗介』をWOWOWで放送するという。観た。
帰ってきてるとか以前に全然作りが違う(劇中劇がない)!でも帰ってきてる!!結婚式してる!!!

つまり、デフォルトの演出は「レイ子は帰ってくる」だったのだ。

それから半年ちょっとたった、23年5月。
篠原版初演でジミーを演じた劇団暁の暁人さんの宗介、高野さんのレイ子という配役で同作が上演されたが、これもレイ子は帰ってきていた。


さて、このように『寝盗られ宗介』を過剰摂取した状態で、2023年5月11日、主演は美麗さん、高野さんと初演と変わらないが、下座は橘劇団という編成で篠原版が再演された。

私は、「帰ってくるレイ子」がデフォルトだ、という認識で、この篠原版を見たらどう感じるか、自分で知りたかった。
結果、やっぱりレイ子はどう見ても帰ってきていない。
いや、宗介は彼女をたしかに見上げているから一概に「帰ってきていない」と言うのも間違いかもしれないが、それでも、宗介と私たち観客が最後に目にするレイ子は、現実のレイ子ではないという感触だった。

すると、芝居後の口上でも美麗さんがラストの演出に言及していた。
美麗さんは最初に本作を知った際、これレイ子帰ってきたのか?死んでんじゃないのか?と思ったそうで、そこからの着想でのこの演出だったということがわかった。
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篠原版初演以後、チェックした戯曲(初演版&96年版)と小説。全体的な構造は96年版が
もっとも近いけれど、そのままではもちろんない。初演版も96年版もレイ子は帰ってくるが、
小説では語り手(一座の音響係)がスポットライトのなかにレイ子を幻視する、という
描写なので、篠原版は小説に近いとも言える。



帰ってくるのか、こないのか。
演出次第でどちらでも解釈可能な戯曲、幅のある戯曲ということは、つまりそれだけテキストに強度があるということだろう。
ただ私は、「帰ってこない」という演出に惹かれる。それは、劇中劇の宗介とお志摩が結局結ばれないからだ。
本作は、登場人物の生活と劇中劇が交差して描かれる。当然、現実の宗介と演じる役(下剃り宗介)、現実のレイ子と演じる役(お志摩)がオーバーラップしていくのが芝居の趣向でもある。実際、劇中劇の宗介はお志摩を音吉に寝盗らせようと差し向けている。
ただ、それはただの趣向で終らない。なぜなら、彼らはただの役者ではなく、「大衆演劇」という、文字通り毎日なんらかの芝居、役を演じている人々だからだ。

毎日役を演じること。
役が実人生を侵犯してくるほど、役が本来の自分が溶け合ってしまう――。
これは大衆演劇に対しての一つの夢想だ(井上ひさしの『化粧』もそういう発想で作られている)。
ただ、下剃り宗介(実は家宣)との婚姻をお志摩が許されないのなら、やはり北村宗介とレイ子も結婚できない、という結末は、役なのか本来の自分なのかの境界線があいまいな、そういう人たちがいる、そしてそういう人たちにしか成しえない「芝居」というものがたしかにあることを感じさせる。


◆可愛い宗介
私はこれまでスーパー兄弟とあまりご縁もなかったので、美麗さんという役者さんに対して、名は体を表すの美貌で、しかもその美貌ゆえに醸し出す温度も低く、「孤高」のイメージがあった。
ところが、宗介を演じている美麗さんを観て、ああこんな一面もあるんだ、と新たな美麗さんに出会えたような気がした。

宗介という役は、座長としては座員思いで、妻と逃げてもその後の座員の生活まで保障するあたり底抜けのお人よしに見えるのだが、対レイ子で考えるとずいぶん身勝手な男でもある。レイ子の行動は明らかに夫に腕を掴んでもらいたいがゆえのものだが、それを無意識下にわかっていて宗介は彼女を突き放し放逐する。
劇中劇のクライマックスで、お志摩演じるレイ子が宗介演じる下剃り宗介実は家宣に対し、こんなセリフを言う。
「いつも私は、あなた様の背中ばかりを見つめ続けておりました。あなた様の背中は広く、明るく、時に冷たく手を差し延べようとすれば遠ざかり、遠ざかれば遠ざかるほど、つのる愛しさに身悶えする毎日でございました」(『寝盗られ宗介'96/ロマンス'97』三一書房、1997年)
戯曲には記されていないが、ここからの台詞は劇中劇の台本にはない、レイ子のアドリブという設定だそうだ(木馬館、篠原それぞれの口上で、暁人さんと美麗さんが熱く語っていた)。

近づこうとすればするほど遠ざかろうとする。でも、関係性を決定的に断ち切ることはしない。
つまり宗介は、一言で言えばとても厄介な男だ。
ではなんでそんな男のもとにレイ子は都度帰ってきてしまうのか。

きっとなんか可愛いからだろうなぁ、なんて私は思う。
そんな笑っちゃうくらい単純でめちゃくちゃプリミティブな人としての魅力が、美麗さんの宗介にはある。
妻がほかの男と寝るよう仕向ける、なんておよそ複雑怪奇な愛し方しかできないめんどい男だけど、なにかどこか決定的にいじらしい人。

特に際立つのが、生来の坊っちゃんっぽさ(実際宗介は裕福な家の生まれだ)。大きな敷地内に座員みんなで暮らす、という子どもみたいな構想をぽよんとした風情で、でもその実現を信じて疑わない様子で話す。無邪気なのだ。
そんな王子様気質がまた、劇中劇の下剃り宗介実は徳川家宣という将軍家の血統に連なる役のニンとも合致する。

ラスト、レイ子の言う「広い背中」を客席に向けて、彼女を迎えるべくポーズを決める美麗さん宗介の広く美しく晴れやかで愛に満ちた後ろ姿は、私の観劇史のなかでも忘れられないひとコマになった。
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芝居のラストに流れる玉置浩二の『メロディ』が最高の切なさを生むのだが、舞踊ショーでは、同じ玉置浩二による
『無言坂』。広い背中が見えた瞬間、宗介だ!!と興奮。



◆守り神としてのジミー
初演の暁人さんのジミーも愛嬌たっぷりで大好きだった。
では再演のジミーはというと、なんと「大衆演劇の申し子」(勝手に言ってるけど異論はないだろう)橘大五郎

この大五郎さんジミーがすごかったのは、レイ子がジミーと逃げると宗介に告げにきてからの3人の場面。ここから夫婦の口喧嘩が始まる。その2人を、着物を畳みながらやわらかく眉根を寄せて見ているジミー。

私は大五郎さんのジミーを見ていて、まるでこのジミーは、「寝盗る男」を挟まないと成立しない宗介とレイ子の関係性を保たせるため、みずから「寝盗る男」になったみたいだ、と思った。
言わば、夫婦を結びつける紐帯、子がいない2人にとって「子はかすがい」ならぬ「ジミーはかすがい」。

だからこそ、そのすぐあとの「僕、座長が好きなんです!」のセリフがものすごく自然に聞こえる。
ジミーは、座長が、レイ子が、その2人が一緒にいることが一番幸せなのだろう。

ジミーという役はこんな風にも捉えられる、ということに本当に驚いた。
このジミーだからこそ、鳴るはずのない携帯も鳴る。
幕切れ寸前の、大五郎さんジミーの「もしもーし!!」は、幻想を追うピュアな人間の切なさに満ちていた。
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長いこと座長をやっているのにずっとフレッシュで
ピュアネスがあるのってとんでもなく得難い人だ、
と友人とうなずき合った大五郎さんジミーでした。



大衆演劇役者の力
私は、今は大衆演劇メインだが、一応、歌舞伎、ミュージカル、宝塚、新劇(って今言う?)、小劇場、オペラと雑食で観劇する。

大衆演劇以外のジャンルを観ていて実感するのは、大衆演劇の役者さんたちがいかにチャーミングでいかに技術があるか、ということだ。
そういうことを伝えられるべき場で役者さんたちに伝えても皆さんとても謙遜されるけど、本当に!!あなた方は!!すごいことをやっているのですよ!!!それも毎日!!!!と私は声を大にして言いたい。

こういう小劇場のお芝居も、彼らが演じることで新たな魅力が発見できる。
こんなに縦横無尽にそれぞれのお芝居の世界を構築できる人たち、劇界のなかでもなかなかいないんだから。
それを目の当たりにさせてくれた新風プロジェクトという企画に感謝と、そして今後ますますそういう機会が増えるよう期待を込めて。

いつか篠原演芸場で『ゴドーを待ちながら』だってやれる日がくるかもしれない!
そんな無限の可能性に心躍らせた篠原の夜だった。