私たちは共闘する――大衆演劇のシスターフッド:橘劇団@けやき座(6/20)

大衆演劇の世界において「女優である」=「女である」ということはどれだけ熾烈なのか、という話をよく友人たちとする。
座長は圧倒的に男性のほうが多く、男優さんに比べればお花がつく機会も少ない、着付や炊事といった裏の仕事も基本女性、おまけに芝居によっては本当に刺身のツマみたいな役なことも珍しくない。
とはいえ、広く演劇の世界を見ても、女優さんが主役の芝居は男優さんのそれに比べ圧倒的に少ない。
だから、はあ~大衆演劇で女優さんが前面に出て、無駄に死なず(主役を引き立たせるみたいに無駄死にすることが多いから)、私たち同性の観客が気持ち良くなるような作品が観たいな~50年後にはあるかな~、なんて友人らと話していた翌週、なんと私はその萌芽とも言うべき作品を観ることになった。

フリーの女優として活躍する三河屋諒さんが、よくゲスト出演する橘劇団のために立てた『花は橘女伊達』である。

筋としてはとてもスタンダード。
長年敵対しあっている赤穂のお藤(橘大五郎)一家と吉良のおえん(三河屋諒)一家。お藤一家が旅の道中、三下のおしん(大五郎二役)がおえんに因縁をつけられ、預かっていたお藤の名刀を奪われてしまい、おしんはその申し訳に自害。あとから駆けつけたお藤が子分の仇討ちと、おえんを成敗する、というお話。
物語の骨格としては『生首仁義』を彷彿させる。

しかし、役名からわかるとおり、登場人物は全員女。
そして、敵役のおえんの造形に、この作品のミソがある。

「赤穂」と「吉良」とあれば、『忠臣蔵』の世界に親しんでいる私たちには明確なイメージが浮かぶ。そのイメージどおり、「吉良のおえん」は徹底的に敵役だ。
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観るたび強靭な知性を感じさせる三河屋諒さん。
昼の部の『白浪小僧春の淡雪』も諒さん作。これも素晴らしかった!
女優さんとしてはもちろん、作者としても超一流の方なんだなぁ。



けれど、彼女がいわゆる敵役の親分で終わらないのは、かつて彼女の世話をしていたという旅館の女中(嘉島典俊)から「なぜ彼女がこんなにも非道になったか」が語られるからである。
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愛嬌たっぷりの女中を演じた嘉島さん。
舞踊でも、くるくるくるくる縦横無尽に舞台を使い、こちらの気をそらさせない。



おえんはかつて赤穂方の男性に片恋をした。しかし、その想いを知った父親から一家の二代目を継ぐお前がよりによって赤穂の輩に懸想などとんでもない、と焼きごてで頬を焼かれ、「人三化け七」と呼ばれる姿になった。そして、その男性の伴侶となったのがお藤だった。

まぁただ、このように文字化すればどう考えてもこれがただの逆恨みだとわかる。しかも片恋なのでお藤の旦那も、もちろんお藤もそんな経緯は知るよしない。実際、この話を劇中で打ち明けられるのは、お藤の妹・お園(藤乃かな)と、おしんの姉貴分・お駒(林佑樹)である。
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かなさんのお芝居を観ると、女優になるために生まれてきた人だなぁと
いつも新鮮に感動する。情に厚く、お藤の名代も勤められる貫目、さすがのお園だった。


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一ヶ月ゲストの林佑樹さん。女形の身ごなしがきちんとしていて、その美しさに心洗われる。
楚々とした外見とは裏腹なおきゃんなお駒もとてもキュート。



火傷によって「人三化け七」と呼ばわれるようになる人物といえば、たとえば『喧嘩屋五郎兵衛』の五郎兵衛や、『留八時雨』の留八がいる。
火傷によって傷を負う登場人物は大衆演劇において珍しくはない。

しかし私は思う。
顔に大きな傷ができた男女で、どちらがそしられることが多いかを。
令和の今の世にまで、「容姿を第三者から(勝手に)品評される」機会が多いのは無論女性だろう。
お藤、ひいてはその一家に対しての憎しみは逆恨みだったとしても、おえんの辿ってきた道は恐ろしく過酷で、非道にならなければ、人間の心の柔らかな部分を捨てなければ生きていかれなかったんじゃないか。
諒さん演じるおえんの達観したような横顔は、彼女の道程の凄まじさを想像するに十分な峻厳さが漂っていた。

とはいえ、彼女がどんな過酷な人生を辿ってようが、行いの惨さは変わりようがない。
堅気になろうと将来を言い交わした相手がいたおしんは、その相手からもらった簪を形見に命を絶った。

その簪と、「首は斬れない」と彼女の髪のひと房を手に、お藤はおえんに一太刀浴びせる。
場内は拍手。圧倒的な敵役にヒーロー(この場合はヒロイン)が鉄槌を下す、大衆演劇ならではの勧善懲悪の光景だ。

でも、これで終わっていたら私はこの記事を書いていない。
登場人物全員女という趣向は女優劣勢な大衆演劇界においてたしかに目新しく楽しいが、言い換えれば、男役で普段やっている芝居をすべて女の役に転化した、という形であれば、ほかの芝居だってそういう趣向は成り立つだろう。

この芝居を特別なものにしているのはここからだ。
お藤が客席に背を向け、一段高いところにいるおえんに斬りつける。
と、その最期の瞬間、おえんはお藤に「あんた――綺麗だね」とほほえみかけ、そのまま倒れる。

そのおえんの骸とおしんの簪とを交互に見て、お藤一家の助太刀に駆けつけた火の車お万(橘良二)は、女だてらに侠客になりおおせた自身を卑下し、女ならこの(簪の)花のように綺麗に生きたいものを、と自嘲する。
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序盤と終盤に出てきて場をさらう「おいしい役」だった良二さんのお万。
良二さんの女形芝居を初めて観たので新鮮!


するとそのお万の言葉を継いで、お藤はこう言うのだ。
「おえんさんもそうありたかっただろう」と。
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なんといっても、少し抜けてる若々しいおしん&一家を束ねる美しき女親分のお藤、
この女形二役ができる大五郎座長がいたからこそ成立した作品。女形芝居をする
座長払底の昨今、ぜひ「女形」というものの魅力を広めていってほしい!



繰り返しになるが、「吉良」の名前を背負ったおえんは、徹頭徹尾敵役だ。いくら敵役になるのにふさわしい理由があったとしても、お藤一家への残酷は最後まで変わらなかった(おそらく、お藤を殺せるものなら殺してただろう)。
そういう、はっきりと善悪が分かれた役同士が、一瞬でもこのようにわかりあう様子を描いた作品を、少なくとも私は大衆演劇で観たことがない。

おえんがお藤にかけた「綺麗」という言葉にはその実際の顔形以上の、女ながらに同じ道を歩きながらも「善」を突き通せた彼女への憧憬があったし、お藤のおえんへの同情の言葉には、女だてらに同じ道を歩いてきた彼女への親愛があった。
最後まで敵同士でも、「女性」であることでふたりはたしかに通じ合っていた。


過酷な世の中だけど、立場によっては一生わかりあえる日は来ないかもしれないけど、でも私たちは共闘している。
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おえん「お藤ちゃんって綺麗だねー」
お藤「おえんちゃんだって可愛いよー」
おえん&お藤「だよねー!私たちってサイコー!」

終演後の帰り道、違う世界線でキャッキャとはしゃぐ、ふたりの笑顔が勝手に浮かんできた。
おえんもお藤もおしんもお園もお駒もお万も、女たちがみんなみんな手に手を取って笑い合い、連帯する――。

もしかしたら、そんな世界が、大衆演劇で観られる日が遠くないのかもしれない。
今、私の胸は高鳴っている。

耳に残るは君のハンチョウ――2020年の芝居小屋で思う

 はんちょう/ハンチョウ/ハンチョ【名】


舞台上の役者さんに対して、客席からかけられるかけ声です。たとえばショーのタイミングで座長の名前を呼んだり、名台詞のタイミングではやし立てたりするようなものです。(略)もともとは客席からのヤジ、かけ声をふくんだ言葉で、半畳(はんじょう)といいました。半畳は本来芝居小屋で座布団がわりにしく小さなゴザで、芝居に文句がある客がこれを舞台に投げ入れたことから来ています。まねをするのはやめましょう。[KANGEKI・大衆演劇豆辞典]より


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◆きっかけは歌江さん


中学も終わりかけの頃から歌舞伎が好きになった。


歌舞伎の特徴的な要素のひとつは、「大向こう」だろう。役者さんの屋号である「中村屋ッ!」とか「成駒屋ッ!」とか三階席後方から声が飛ぶと、ビックリして後ろを振り返る初見のお客さんをときどき見かける。大向こうは図らずも初見さん発見機としても機能している。


しかし、歌舞伎の場合、女性がかけることは珍しく、そもそも大向こうの会に女性の入会は許されていない(今でもそうだと思う)。 


私自身、女優さんが舞台にいない歌舞伎という芸能に、「女の声」は浮くな~と感じており大向こうの経験はない――と書いたが、実は一度だけ声をかけたことがある。


それは俳優祭(数年に一回、歌舞伎役者が一堂に会して物販とか手ずから担当する文化祭みたいな催し)の名物コーナーだった「歌江の幕間シアター」にて。


中村歌江さんという、歌舞伎ファンなら誰もが知る手練の役者さんが、全身スパンコールの着物で歌謡曲に合わせて歌い踊る。


お祭りの出し物だし、そもそも歌舞伎座の本舞台でかかってるものじゃないし(ロビーの空きスペースに作られた仮設舞台だった)、お客さん十数人だし、歌江さん好きだし、今しかない!と勇気を振り絞って「成駒屋ッ!」と声をかけた。後にも先にも、歌舞伎役者さんに声をかけた(る)のはこれが最初で最後だと思う。


そして、今ならわかる……。


全身スパンコールの着物で歌謡曲に合わせて歌い踊る、という演し物の意味が。

そう、あれのイメージは「大衆演劇」だったのだ!

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幕間シアターの幕間に。筆者大学生のときの良き思い出。
歌江さん、大好きだった。

  

◆C&Rデビュー

数年後、大衆演劇を見始めたとき、この世界では「大向こう」のことを「ハンチョウ」と呼ぶ、と知った。

そして「ハンチョウ」は男女の差なくかけるものだった。


とはいえ、ハンチョウというのはかけ慣れた人がかけるもの、という認識だった。


歌舞伎のように基本的にかけどころが決まっている、というわけではないが、芝居中なら出はけ&山あげ台詞のいいところで、舞踊中ならサビの終わりかけのいい間合いで、みたいなふわっとした不文律はあると思う(というか、それ以外の場所でかけてはいけないということではなく、そのあたりでかけたほうが結果かっこいいハンチョウになる、という認識でいる)。


そうして、ぽちぽち大衆を観ていて、劇団都の三吉公演に通ってたなかで、私のなかで少し変化が起きた。


都に当時在籍していた藤乃かな座長の歌のレパートリーに『あなたを口説きたい』があった。

そう、この曲には、大衆好きの人なら一度は聞いたことであるだろう、コール&レスポンス箇所がある。


サビ前の「酔った女はお嫌いですか~」に対して、\大好き大好き大好き○○(歌い手の名前)/(場合によって\大好き大好き/だけのことも)と客席が声を揃える、大衆界定番のC&Rだ。


初日近辺に見たときは、みんな応援隊だね~(´ー`*)ウンウンなんて「ほほえましい光景」としてそのC&Rを聴いてたのに、楽日近辺にはすっかり\大好き大好き大好きかなちゃん/と応援隊の一員になっていた。

C&Rは、音楽がガンガン流れてるし、歌詞のなかに溶け込むので、ハンチョウに比べれば抵抗がなかった。
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お芝居はもちろん、ショーでもお客さんをめちゃくちゃ
盛り上げてくれるかなさん。立ちはともかくカッコイイ!


大衆舞踊ショー定番曲でC&Rある代表曲といえば、もう一曲は『酒供養』だろう。やがてすっかりC&Rに慣れた私は、初見にもかかわらず「この人好き!」と思った役者さんに\酔っちゃえ優ちゃん/と叫べるくらい成長していた。



◆マイ・ファースト・ハンチョウ

こんな風に、歌江さんによって拓かれ、かなさんのC&Rによって耕された「声かけ精神」は、ついにTEBの小龍さんによって確立される。


いつの舞台がマイ・ファースト・ハンチョウだったかは覚えていないが、たぶんそれは\小龍ッ/だったはずだ。小龍さんの舞踊は、いつも一篇のお芝居のような奥行と深さをたたえていて、なにか常に「大事なものを捧げている」という厳粛さえ感じられる。だからこそ、その真摯な思いにせめてものハンチョウで応えたい、という気持ちからかけはじめていった気がする。
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たぶん、マイファーストハンチョウはこのとき。
逢春座@大島劇場のときのゲストで『お梶』。


小龍さんを敬愛している友人とあるとき一緒にTEBを観ていた。彼女も普段はハンチョウをかけない人だ。けれどその日、小龍さんが見せてくれた舞踊に感動した友人が、思わず、という感じで身を乗り出し\小龍ッ…!!/と溢れんばかりの切実さとともにその名を呼んだ。ああ、これがハンチョウのプリミティブな形だなぁ、と思った。


TEBつながりで、今は嵐山瞳太郎劇団の座長の瞳太郎さんが、まだTEBに在籍していた2016年1月の三吉公演。在籍はしていたけど、どうやら近いうち劇団を立ちあげるらしい、という話はこの頃すでにささやかれていた。


マイ初日、いよいよ夢を現実としてつかもうとする人独特の、冴えきった美しさが増す瞳太郎さんに\瞳太郎ッ/と声をかけたとき、あ……次の公演でかけるときは、もう\座長ッ/かもしれないんだ、とワクワクするような、でも少し寂しいような、不思議な感慨に見舞われた。

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退団直前、冴え冴えとした美をたたえた瞳太郎さん。

そして2年後、瞳太郎さんに\座長ッ/とかけたときも、しみじみとした感慨にひたったのだった。
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こちらは\座長ッ/とかけることができた瞳太郎さん。
生来の美しさに自信がにじんでる。



◆降り注ぐアイラブユー

しみじみとしたハンチョウといえば、2018年2月大島劇場の劇団新公演。

三兄妹のお母さまであり、立ちも女性役も抜群にうまい秋よう子さんは、芝居に出ることはあっても、おそらく裏の仕事がお忙しいのもあって、舞踊ショーに出ることはかなり珍しい。
けれどこの日は「女優デー」という素敵な企画だったため、よう子さんの個人が!曲は『人生一路』。
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この笑顔!!!あまりに朗らかで、そのあたたかさについ涙腺が刺激されてしまう……。

 

♪泣くな迷うな 苦しみ抜いて 人は望みを はたすのさ♪
美空ひばりの明るく力強い歌声に乗せて踊るよう子さん。そこに降るように、\よう子ッ/のハンチョウ。
私は劇団の観劇歴が浅いのでその時期は知る由もないが、よう子さんはかつて座長(現後見)の龍児さんとともにバリバリ主演をしていた役者さんだ。今は送り出しにも出られていないから、どんなに素晴らしいお芝居を見せてもらっても直接その気持ちを伝えることはできない。
この日、よう子さんにハンチョウをかけ、お花をつけていた人のなかには、長年彼女のファンのお客さんもいただろう。普段はなかなか伝えづらくなったその人たちの、大好き!あなたは最高!というありったけの思いがこもったハンチョウは、よう子さんの清々しい朗らかな踊りとともに、私の胸に残っている。


◆セルフハンチョウという手法


私にとって芝居においてのハンチョウがかけやすい筆頭は、劇団炎舞の橘炎鷹座長である。

炎鷹座長の山あげ台詞の調子のよさは劇界屈指といっても過言ではないと思うが、調子がよいというのはつまり、そのリズムの盛り上がりが明確なため、頂点がココ、というのもわかりやすいということだ。
文字起こしすると、つまりこういうことである↓

「馬が蹴上げた泥水か 折れた線香(※)の一本でも 供えてやってええ」 ※「せんこ」と発音
\座長ッ/
「おくんなさい」(『血染めの纏』より)

この、「一本でも」と「供えてやって」の間に、あくまで全体のリズムは崩さずに、けれどそれまでのなかでもっとも大きい間(ま)が取られることによって、ココだ!が瞬時に体感できる。

そんな炎鷹さんは、今日はちょっと客席がおとなしいなぁ、というときによく、セルフハンチョウをする。
普段、ハンチョウがかかる箇所に差しかかると、踊りながら\座長ッ/と自分で自分にかけるのだ。なんとなく息をつめて見ていた客席も、思わず笑いに包まれる。
これは、炎鷹さんの舞踊中にときどき見られる、「緊張と緩和」の「緩和」を誘発する仕掛けのひとつでもあると思う。
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セルフしたあと、こういうスンとした顔に一瞬で戻るのもおもしろポイント。

あと、『飢餓海峡』のとき、けっこうな頻度で、♪連れてってぇ……♪という吐息交じりの切羽詰まった歌詞に対して\どこへやねん!/と叫んでいるときもあるが、これはハンチョウというよりツッコミか(笑)。

◆懐かしい記憶を乗せて

大衆界でもとても人気のある、故・十八代目勘三郎さんが勘九郎時代のエッセイで、『一本刀土俵入』について語っている。
その勘三郎(当時勘九郎)さんの『一本刀』公演中のとわず語りを下記に抜粋(ちなみに文中に出てくる「六代目菊五郎」とは、大正~昭和にかけて活躍した大名優・六代目尾上菊五郎のことである)。



あ、そうそう昨日は大変だったんだ。
舞台に私が出ていったら、すぐに大向うから、「おとっつぁん〈十七代目勘三郎〉にそっくり~」って声がかかる。
「よ、中村屋」なんて声があがるね。
そしたら、下のお客さんが「六代目!」って。
もう、うれしくってね。(略)
騒がず慌てず、一切の感情を抑えて、茂兵衛になりきる。
「しがねえ姿の、横綱の、土俵入でござんす」
って言ったら、一階席から大きな声で、
「よぉ六代目菊五郎!」だって、名前まで入れてくれちゃった(笑)。
なんと幸せだったのでしょう、昨日は。

勘九郎とはずがたり』(集英社文庫/1994年)


六代目菊五郎勘三郎さんの母方の祖父にあたる。
けれど、敬愛するお祖父さんの名前とはいえ、自分でない役者の名前をかけられて喜ぶ、というところが歌舞伎という芸能のおもしろいところ。


これは先人の築いてきた芸を踏襲し、「自己」を出すのはその先、という歌舞伎特有の感覚ゆえだが、勘三郎さんの喜びはそれ以上に、六代目菊五郎が『一本刀』茂兵衛の初演者であり、この役を当たり役にしていた、という点も大きいんじゃないかと思う。


大衆演劇では、もちろん親子で役者の人も多いが、たとえ心のなかで、わぁお父さんにそっくり、と思ってもそれがハンチョウになることはまずない。 


そういう認識でいた私は、2019年11月、忘れられないハンチョウを聞いた。
劇団新のけやき座公演。お外題は『国定忠治』。赤城山山形屋、そして忠治の最期まで、大衆界では今では珍しい『国定忠治』の通しだった。

この芝居は、劇団新国劇の代名詞的演目である。
剣劇を得意とする新国劇は、大正~昭和中期にかけて『国定忠治』や長谷川伸作品で非常な人気を得、澤正こと澤田正次郎、島田正吾辰巳柳太郎といったスターを生み出したが、昭和六十二年に解散、私は生で観ることは叶わなかった(後継の劇団若獅子は今も活動中)。

かつての新国劇には、おそらく大衆演劇の役者さんもお客として見物することも珍しくなかっただろうし、演目がかぶっていることもあって、新国劇大衆演劇もどっちも観る、というお客さんもいただろう。

さて、この日の劇団新の公演は、通しということもあって、座員皆さんの気持ちの入り方もひとしおで、客席のボルテージも舞台上の熱気につれ上がっていた。
そして、とある場面。
忠治役の新座長が朗々と台詞を詠ずると、客席からこんな声がかかった。

\忠治ッ/ \国定ッ/

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新座長は舞踊ショーでもたびたび股旅姿を見せてくれる。
股旅ラバーの友人もイチオシの似合い方。


数えきれないほどお外題がある大衆界でも、定番狂言というものは存在する。たとえば『喧嘩屋五郎兵衛』、たとえば『遊侠三代』。
けれど、\五郎兵衛ッ/、\長治ッ/というハンチョウはこれまで聞いたことない。

思わず役の名前で呼びたくなってしまったくらい、新座長の芝居が素晴らしかったことは当然だ。けれど、同時に私は、声をかけたその人は、かつて新国劇を観ていた人ではないかな、と思った。

国定忠治というキャラクターは、現在テレビや映画ではまず観ることがない。
でも、時代劇映画が、新国劇が華やかだった当時を知る人たち――「赤城の山も」のひと声を聞くだけで、瞬時に懐かしさに胸がいっぱいになる人たちが、たしかにいる。
そんな記憶を持っている人の、キャラクターをいとおしむハンチョウ。


それはもちろん私の妄想だけれど、思わず役名で声をかけたくなるほど、忠治という役は愛されていた役なんだと、そのハンチョウは教えてくれた。

ハンチョウというのはそんな役目もあるんだと、今もあの声が私の耳に残っている。

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2020年、コロナはいろいろなものを奪ったが、ハンチョウもまた聞けなくなった。
一日も早く、客席のさまざまな思いを乗せた「声」が戻ってきますように。


笑いと血潮:劇団炎舞『河内十人斬り』@篠原(11/21)

笑うことも、泣くことも、食べることも、殺すことも、すべて自然に隣にある。


劇団炎舞@篠原演芸場(2020/11/21)
お芝居
『河内十人斬り』

城戸熊太郎:橘炎鷹
谷弥五郎:橘佑之介
松永寅次郎:橘鷹志
熊太郎女房おぬい:橘麗花
弥五郎妹おやな:橘そらり
松永伝次郎・えひめけん:橘ひろと
あめとら:新野瑛巳
おぬい母おかく:沢田ひろし



炎舞の『十人斬り』はこれで三回目だった。
一回目は沢田熊太郎×炎鷹弥五郎、二回目は炎鷹熊太郎×鷹勝弥五郎、そして今回の、炎鷹熊太郎×佑之介弥五郎。

初めての炎舞の『十人斬り』は、まるでギリシャ悲劇のような重みがあった(当時の記事はコチラ)。目の裏に残っているのは、終幕、血まみれ涙まみれの炎鷹さん弥五郎を見下ろす沢田さん熊太郎の、白く冷えた神様のような傍観の表情だ。

二回目は、「この役をやれて嬉しい!」という光に溢れた子犬のような鷹勝さん弥五郎と、優しくか弱い炎鷹さん熊太郎(当時の記事はコチラ)。やはり終幕、弥五郎を刺す熊太郎の切っ先に、それまで自分たちを阻害してきた「世間」が見えた。熊太郎は弥五郎を通して、到底敵わないその巨大な力に一太刀浴びせたように感じられた。

そして今回。
初めて観る佑之介さんの弥五郎は、とても軽やかだった。
弥五郎の、ゼロもしくは百しかない単細胞ぶりというのは誰がやっても共通してるけど、佑之介さん弥五郎は、ゼロ、もしくは百までの到達=その行動に至る結論が、ものすごくスピーディーで軽やか
熊太郎への愛はいっぱいあるけど、力で押すというよりは自然体の弥五郎だった。
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松永邸に一人向かい、結果ボロボロになった熊太郎が弥五郎と復讐を誓ってから少し時間がたち、熊太郎の傷も癒え、土場で網にかけられていた弥五郎も出所する。
久々の再会を果たした二人は喜び合うが、熊太郎は、所詮赤の他人の弥五郎は結局逃げてしまったんじゃないかと疑ってた、すまない、と涙ながらに弥五郎に詫びる。頭なんて下げんでええ!と熊太郎を鼓舞する弥五郎。
そして彼は、妹・おやなのところに永の別れをすませてくるが決して兄貴一人で行くなよ、指切りげんまん、と小指を熊太郎の前にすっと突き出す。ニッと笑顔で小指を結ぶ熊太郎。すると弥五郎が言う。

「指切りできる小指がまだあってよかったわ」

茶目っ気たっぷりに混ぜっ返す弥五郎。声を上げて笑い合う二人。

さっきまであんな涙涙だったのに、今はもうカラッと明るい。
私がもっとも印象的だったのはこのシーンだった。

この二人、とりわけて佑之介さん弥五郎は、あらゆる感情が「近く」に存在している感覚があった。
命をかけた復讐に向かうシリアスさも、お互いを思いあって流す涙も、他愛ない冗談も、弥五郎のなかではすべて等価値で、だからこそ、なんの迷いもなくポンポンとその「思うところ」に行き着いてしまう。あっさりとして乾いている。
決断するとき、行動するとき、普通の人々はもっと惑うし省みる。でも彼は、そこを一目散に疾走していく。たとえ血まみれになってもその速度はゆるまない。そしてその迷いなき疾走こそ、弥五郎を「気違い」と言わしめる所以なのだろう。


ホップステップジャンプで、どこまでも遠くに行ってしまいそうな、そんな佑之介さん弥五郎を地上に引きとどめているのが炎鷹さんの熊太郎だ。
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※写真は、ボス・橘魅乃瑠を偲ぶ日のもの。

炎鷹さんの熊太郎で一番印象に残ったのは、終幕、花道から本舞台に来て、中央で来た道を振り返り、山を囲む松明を認めた瞬間の表情。

多くの光に慄く熊太郎の目を通して、囲む松明がはっきりと私たち観客に見えるところは、本当に、この人すげい!と改めて役者・橘炎鷹にひれ伏したが(ファン)、ここで現れるのは熊太郎の真っ当さ、もっと言うなれば「普通」さだ。

弥五郎と違って熊太郎は、捕縛される恐怖も、寅を殺すことの不可能さも、捕り手となった顔見知りの村落住人を殺すことの抵抗も感じている。

この「普通」の感覚が、これまで弥五郎を地上にとどめ、果ては彼を天へ帰す力となったのだった。



主役二人以外も、すべての役が各々の特色を持って息づいていた。


ボスが勤めていたおかくを引き継いだ沢田さん。
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ボスの加役の凄みとはまた違う、女形役者さんならではのねっとり感のあるおかくだった。
間男した寅次郎を叱責する松永伝次郎は、メンツを汚されたという理由以外にも、この人に一家に入ってこられるのがどこか嫌だったからあんな怒ったんじゃないかな、と思わせる、知らぬ間に自分の思い通りに事を運ばせズルリズルリと生きてきたようなしたたかな賢さも見え隠れする。


松永伝次郎とえひめけん二役のひろとさん。
伝次郎の、理が三分に非が七分くらいの絶妙な悪どさ、村の顔役にはのし上がれそうな貫禄が物語を重層的にしてくれる。
打って変わって、えひめけんは愛嬌たっぷりでかわいい。
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※写真は、ボス・橘魅乃瑠を偲ぶ日のもの。


すべての元凶でありながら、唯一生き残る寅次郎を演じた鷹志さん。
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かわいい末っ子としてすべてを許されてきたんだろうなぁ、と納得できる甘えた感と飄々とした風情。


役者さんの数だけ役の新たな発見がある、広く、長く演じられてきた作品、いわゆる「古典」の醍醐味を実感させてくれた今回の『十人斬り』だった。

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熊太郎の「普通」と弥五郎の「疾走」。

この真反対の二人を見ていると、二人で一つ、という形容が比喩でなく、むしろ、本来は一人の人間のなかに宿る二面性が、別個の体にそれぞれ立体化されているようにも見えた。

そう考えれば、二人が同時に死ぬことは至極当然だろう。
もしかしたら、元々二人は一人の人間のなかにともに宿る魂だったのに、なにかの手違いで別々の人間になって生まれ出たのかもしれない。

その終幕、炎鷹さんの熊太郎が死にゆく佑之介さん弥五郎を抱きしめながら、かすれ声でこうつぶやいた。

「お前……親父おるやろ?――死んだら親父に会えるやんか」

声もなく、コクンとうなずく弥五郎。


本当は一つだった二人は、また再び一つになって、天国にいる「親父」に会いにいく。
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豊穣かな豊穣かな:劇団翔龍×劇団新『金太一番手柄』@けやき座

くうううううううううううっ!!

脳内でもだえた。芝居小屋に通っていると一年に何回かはある、「今私、アドレナリン出てるー! \(°∀°)// 」という至福の状態。
劇団翔龍と劇団新による『金太一番手柄』の一幕終盤で、私は一人、マスクで口元が隠れているのをいいことに盛大にニヤついていた。劇団翔龍の、春川ふじお座長と藤川雷矢副座長のやりとりが、「芝居の快楽」に溢れていたからだ。

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劇団翔龍×劇団新@けやき座(2020/7/25)
お芝居『金太一番手柄』

金太:藤川雷矢副座長(劇団翔龍)
おこも・新公:小龍優花形(劇団新)
金太の姉:秋川美保(劇団翔龍)
闇法師:龍錦若座長(劇団新)
佐々木:龍新座長(劇団新)
龍蔵:春川ふじお座長(劇団翔龍)

今、世情を悩ませる盗賊・闇法師らを捕らえんと、同心・佐々木は、腕ある岡っ引き・龍蔵に捕り親を引き受けてくれるよう頼む。しかし、月番が代わるまでに捕えられなければ奉行は切腹、という荷の重さに龍蔵はこれを断るが、そこへ弟分の金太が進み出て捕り親を買って出て、初めての手柄を目指す。兄貴分の龍蔵に協力を乞う金太だが、龍蔵は拒否し、あまつさえ金太の額を割る。三日後、なかなか手がかりを得られない金太だったが、おこもの新公の助力もあり、無事闇法師を召しとる。意気揚々の金太は龍蔵に額の割返しをしようとするが、それを止める佐々木。そもそも龍蔵が捕り親を辞したのも金太に手柄を立てさせるため、おこもに陰で協力の口添えをしたのも龍蔵、額を割ったのも金太を発奮させるためだった。龍蔵と佐々木の思いやりに感謝し、金太は岡っ引きとしての一歩を進み出す。


そこそこ長く書いたが、前回の記事同様、ひと言で言えば、「立派な岡っ引きになりたい金太がみんなの協力で手柄を立てる話」。

でもこの単純明快なお話が、本当におもしろかったのだ!
というのは、物語の芯になる二人、金太の雷矢さんと龍蔵のふじおさんの丁々発止が最高にスリリングだったから。

この二人のやりとりのハイライトが、一幕の終盤。
捕り親を名乗り出て兄貴分の協力を得たい金太と、てめえの親には恩があるがてめえ自身にはなんの恩もないと突っぱねる龍蔵。

金太は、亡き親は立派な岡っ引きだったけれど、いまだに手柄があげられないちょっと情けない青年で、大柄な雷矢さんがちょっと体をすぼめて「兄ぃ」とやってくる様子はなんともかわいらしい。

対する龍蔵は、苦味ばしった声音と鋭い目つきに、腕の立つ岡っ引きだということがよく伝わる。ふじお座長は、扮する役と常に程よい距離を保ってるような滋味溢れる役者さんで、それがこの役にピッタリ。
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座長、副座長どっちもお芝居巧者ってありがたいことだな~と。


ともに金太・龍蔵のキャラクターの輪郭がしっかりしながらも、あるときは攻め、あるときは受け、その変わりようがシーソーをぎっこんばったんするみたいに次々と互いに移り変わっていく。でも、受けているとき、攻めているときも受け・攻め一色ではなくて、そのなかでグラデーションのように感情の襞が色合いを変えていく。だからこそ、大衆演劇としてはとてもスタンダードな会話の応酬なのに飽きさせない。

しかも、この会話のなかに、軽めの世話物らしくきっちりおかしみのあるシーンも入っている。

たとえば、三日で召しとれなきゃどう落とし前をつけるのかと迫る龍蔵に、金太が「おいらも男だ。三日のうちに闇法師、御用にできなかったそのときには、皆様方へのお詫びの印、この腹切ってお詫びをいたしますーっ」と断腸の思いで言い切ると、その覚悟に場内は大きな拍手。そこからの次のようなやりとり。

龍蔵「侍じゃねえが、腹ぁ切ってけじめつけると、そう抜かしやがったな」
金太「(消え入りそうな声で)うん……」
龍蔵「今言った言葉に間違いはありはしねえな」
金太「(ちょっと情けない声で)兄ぃ、おいらも男だい、言った言葉に二言はねえや。いざ腹を切るときに、兄ぃに腹を貸せとは言わねえ
龍蔵「冗談じゃねえよ、なんで俺がおめえのために腹貸さなきゃならねえんだ

大上段に構えたものの甘え心が抜けない金太のかわいらしさ、そして龍蔵の「なんで俺が」という的確なツッコミ、そしてどちらも大真面目な様子に思わず笑ってしまった。

10分程度この二人のやりとりがあったあと、金太が颯爽と引っ込むと、一人舞台に残る龍蔵が、それまでの手ごわい声色と打って変わって砕けた口調で「あいつ、大丈夫かなぁ」と独り言ちる。その瞬間、客席は「あ!龍蔵は金太をけしかけてるのか!」と思うも、すっと上手から新さん扮する佐々木が登場、龍蔵が話しかけようとすると、にっこり笑って「しーっ」と口の前に人差し指を立てるところで幕(客席「佐々木と龍蔵二人ともいいやつじゃん!」)。この三人の対比が涼しい、なんとも鮮やか、気持ちのいい一幕だった。

観終わって、ああすごい「大衆演劇」な舞台だな、と。
どーってことない筋、普通にやったら30分で終わってしまうような物語を、役者の芸で味つけして、何度でもおかわりしたくなるようなおいしい作品にしてしまう、これってすごいこと。

奇しくも、この日の夜の部は、劇新の名作オリジナル狂言『令和に現れた石松』(この作品の記事はコチラ)。
昼は各人の芸で見せていくシンプルな作品。
夜は大衆演劇をメタ的に扱うという清新な手法で21世紀に誕生したオリジナル作品。
大衆演劇ってなんて豊かなんだーーーーーー!」と星空に叫び、改めてこの芸能に惚れ直した一日だった。

さて、今月が初めましてで、なんとも嬉しい出会いになった劇団翔龍の皆さん。


春川ふじお座長
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女形舞踊は、「春」「ふじ」というお名前の印象そのままの
ふんわり感。でも、芝居での苦み走った親分役の乾いた印象は
ほかにはちょっとない。観れば観るほど魅了される役者さん。


藤川雷矢副座長
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まだ二十代なのに、こんなガンガン山あげする役者さんいたんかーい!
と、その古典味溢れるお芝居に釘付け。これからいろんな役を
初見で観られるかと思うとワクワクが止まらない。


藤美匠さん
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お芝居だとちょっと間抜けな筆頭子分か憎々しい敵役。
でも、いつもとても「その役らしい」し、
舞踊で声がかかるときっちり返事するのも、おもしろさと
一緒に生真面目さが感じられるのも好感度大。


藤川真矢さん
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達者!端場でちょっと台詞をしゃべっていてもうますぎて、とても十代には
見えないぞ。舞踊では『ブラジル音頭』が印象的で、それもやっぱり
センスの塊感がハンパなかった。芯になる役でのお芝居が観たい。


春川誉さん
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初めて観たときの舞踊で、「表現したいもの」が明確に
ある、ということが如実に伝わる世界を作り出していた。
これからどんどんいろんな役、曲に挑戦していくんだろうなぁ。


秋川美保さん
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お芝居は一役しか観られなかったけど、舞踊で見せる笑顔も、
「ありがとうございましたー!」の声もいつもすごくかわいらしい。


藤川あづささん
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プックリしたほっぺがキュートで、とても楽しそうに踊られる。
口上でお師匠の雷矢さんと絡んでるときもひまわりみたいにニコニコ。


翔龍さんのお芝居は、『唐丸籠』みたいな古い作品でも、筋が整理されていて、かつキャラクターの陰影が濃く、見応えがあった。
どちらかといえばモダンな感覚が強い劇新のお芝居とうまく混ざりあって、重層的な舞台がいっぱい生まれた7月のけやき座だった。
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コロナが落ち着いたその先で、またこの合同が観られたらいいな。

そのように生きる――たつみ演劇BOX・辰己満月さんのこと

これは、2019年1月、つまり1年以上前に書きかけた記事である。
特に理由もなく上げそこなった記事というのは、結局ずっと下書きフォルダに眠ったままでそのまま静かに昇天していくのが常なのだが、ふとアップしたいと思いたち、久々にブログを立ち上げた。

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たつみ演劇BOX@朝日劇場(2019/1/6)
お芝居『やくざ男』

繁蔵:小泉ダイヤ座長

濱田屋一家・辰次:黒潮幸次郎座長
三島の親分:宝良典
濱田屋一家・初太郎:小泉ライト
濱田屋下男・二八:辰己花
新兵衛次女・お染:辰己満月
新兵衛長女・お雪:辰己小龍
濱田屋代貸し・千太郎/濱田屋新兵衛:小泉たつみ座長

旅人の繁蔵が濱田屋新兵衛一家に世話になっている折、お染につれなくされた恨みにより敵対する三島側に寝返った初太郎の手引きで新兵衛が襲われる。新兵衛は今際の際に「旅に出ている千太郎が戻るまでは敵討ちはならない」と言い残し、千太郎の代わりとして繁蔵を一家の長、お染の亭主となるよう願い絶命。それからしばらくして、初太郎を筆頭に三島一家が辰次の家を襲来し、辰次の妻は命を落とす。辰次と事情を知ったお雪、お染は三島一家に乗り込み、新兵衛との約束を破る呵責に耐えながら繁蔵もあとを追う。そこに千太郎も駆けつけ、無事三島一家を成敗。千太郎はこの騒ぎの負いを受けるため、繁蔵に一家を託し、再び旅に出る。


久々のTEB!  しかし聞いたことのないお外題だな? まぁでもTEBが観られればいいやと出向いた私と友人。

そこで思い知ったのだ。
大衆演劇界のFCバルセロナ命名:筆者)=ファンタジスタ集団ことたつみ演劇BOXの底力を……!

長々とあらすじは書いたものの、筋としては
「旅人繁蔵がなんだかんだあって一家を任される話」
である。
言ったら、一行で済む話。しかしこれがファンタジスタたちの手にかかると大衆演劇の楽しさに溢れた豊かな芝居になるから驚き!

ファンタジスタだから、皆さんそれぞれに魅力的。
けれど、なかでも刮目したのは、新兵衛一家の次女・お染を演じた満月さんだ。
友人たちの間でも、最近の彼女はすごい……と密やかに、でも確実に話題になっていた満月
さん。
芝居の幕開き、パッと舞台に出てきた満月さん演じるお染が口を開く。
その瞬間私は、こんなにちゃんと「ヤクザ一家に育ったお嬢さん」を見たことがない、と思った。
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舞踊ショーで個人に当たるか当たらないかは運次第だけど、
1曲にかける「魂の濃さ」は小龍さん譲りだと思う。圧倒される。



「ヤクザ一家に育ったお嬢さん」は多くの芝居につきものだけど、大店のお嬢さんとそう大差ない場合が多い。もっとはっきり「姐さん」になれば別だが、カタギだろうがヤクザだろうが「お嬢さん」は「女の子」以上でも以下でもないキャラクター造形か多かったりする。

けれど、満月さんのお染は違った。彼女の口調、立ち居振る舞いには確実に、町娘にはない「侠気」がにじみ出ていた。動きの一つひとつはビュンッとしなるように俊敏だし、言葉の一語一語は、語尾に小さな「ッ」が入っているように勢いがある。
実際、一家の若い者・初太郎(ライトさん)に強引に迫られるとき、お染は泣いて助けを呼んだりはしない。自分を捕らえようとする初太郎の腕をさっと掴んだと同時に、みずからの簪を抜き取りその腕に突き立てる。文字通り自分の身は自分で守る、武闘派女子なのだ。

終盤、一家の辰次(幸次郎さん)の加勢で三島方へ乗り込もうとする小龍さん演じるお雪の姿をとらえると、お染は、姉さんが行くなら私も!  と敵討ちを志願する。
女で、しかも夫の繁蔵(ダイヤさん)が(新兵衛との約束ゆえにとはいえ)敵討ちを拒否しているにも関わらず、彼女はなんの迷いもなく命を投げ出そうとする。

でも、ここまで満月さんのお染を見てきた私たちは知っている。
彼女が、そのように育てられてきたことを。
ヨチヨチ歩きのときから、一家の者にお嬢さんお嬢さんと大事にされる代わりに、いざとなったら義理と仁義のためには命を惜しんではならない、と教えられてきたであろうことを。

お雪のセリフに「曽我兄弟じゃないけれど」とあるように、この二人は完全に、父の仇を討たんとする五郎・十郎兄弟の姉妹版だ。
お染の背後に曽我五郎が重ねられてるのであれば、彼女の鉄火さは至極納得。

そんな満月さんのお染と、情と強さを兼ね備えた小龍さんお雪、この二人が敵方へ乗り込む幕切れ、小龍・満月両名のイキの良さの素晴らしかったこと……!
朗々とセリフを詠じ、傘をかざして勢いよく二人が引っ込むと一旦幕。
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小龍さん、この日の個人は弁慶! 小龍さんと満月さん、
このふたりの女優さんが同じ劇団にいるってとんでもない
至福です。普通に観てるけど、これはすごいことだよ。



万雷の拍手のなか、力が抜けた私が背もたれにもたれかかるのと同時に、隣の友人が「満月さんほんまハンパないって」「こんなんできるんなら言っといてや」とつぶやいていた。ほんと、女大迫、いたね。。←このへん1年以上前の記事ということでご容赦いただきたい……


近頃、TEBの芝居は、芝居の色合いによらず笑いによる脱線が少し多い気がしていたのだけど、やっぱりやっぱりTEBは、愛と信頼のTEBだった。

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そして今、2020年5月。1年前どころか数ヶ月前には考えられなかった疫病の蔓延により、日本全国の芝居小屋は閉まり、芝居どころか、私たちは外出すらままならなくなった。

そんななか、梅田呉服座さんが無観客舞台の動画を配信するという試みに打って出てくれた。奇しくも、4月に梅田に乗っていたのはTEB。
ということで、先日、第一弾の動画が配信された(第二、三弾もあるそう! 詳しくはコチラ)。
お芝居はおなじみ『稲荷札』。

口から生まれたドケチな、でもどこか憎めない大店の女主人をたつみさん、満月さんはその大店の一人娘で、手代の清七と秘密の恋仲。上記のヤクザ一家の鉄火な娘とは真逆の、振袖がよく似合う乳母日傘で育ったお嬢様だ。

この満月さん演じるお七の可愛さを、大衆演劇ライターのお萩さんは自身のブログ『お江戸の夢桟敷』のなかでこんなふうに形容している。少し長くなるが、満月さんお七のキュートさをめちゃくちゃ的確に捉えた文章なので、ぜひ読んでください(全文はコチラ)。


そして、終演後に観劇仲間と「あの可愛さはとんでもなかった…」と言い合ったセリフがある。
実際に駆け落ちすることになったお七と清七は、夜の森を歩いている。
荷物を負う清七に、
「ずいぶん重いですけど、一体何が入ってるんです?」
と問われて。

「三月のお雛様!」

満月さんの嬉しげな表情と相まって、私は簡単にノックアウト。
お雛様ですよ。
駆け落ちするのに、お金でも食べ物でも衣類でもなく、最優先で持って来るものがお雛様ですよ!
子どもの心を映し取ったような、能天気極まりない思考が可愛いのなんの。

このお七の性格を見ると、御寮はんは守銭奴ながら、なんだかんだ主人の忘れ形見の娘を甘やかしまくって育てたんだろうな。
なんて背景まで想像されるのだ。


本当に、私はこのシーンが、今まで観たなかで一番心に沁みた。もっと正確に言えば、涙がにじんだ。
満月さん演じるお七のなかにはハッピーな感情しかない。大好きな人と四六時中一緒にいられるということも大きいだろうけど、そもそも苦労が身につかないお嬢様ぶり。それを世間知らずというならそうかもしれないが、世間知らずで、苦境に合わず、いや苦境を苦境とも思わないで生きられるなら、それはすごい力じゃないか。
このお七がずっと「能天気」でいられる世の中であってほしい、そんなふうに思わせるのが満月さんのお七なのだ。

このお七を観て、下書きフォルダにそのままだったこの記事を引っ張り出してきた。


座頭、二枚目、三枚目、立女形、娘方、老役、敵役、道化方。
その役らしくあること。
TEBの「愛」と「信頼」は、まさにこの典型の「役」にふさわしいニンをもった役者さんたちが揃っているところから派生していると思う。

その娘方を担う辰己満月さんは、これからも、あくまで「娘」という規範は超えずにしかし、万華鏡をクルクルと回すように、それぞれの娘たちのそれぞれの彩を見せてくれるに違いない。

第四幕はここで――喫茶店・樹林のこと

大衆演劇の劇場には名物がある。
有名どころでは、篠原演芸場のおにぎり、鈴なり座のたこ焼き、ぶらくり劇場のおでん、などなど。


じゃあ、横浜の三吉演芸場の名物はなんだろう。
ペンギンのイラストがかわいいオレンジ味のアイスキャンディー・三吉アイスもいいけども。

私が思うに、三吉の名物それは、劇場から徒歩3分、よこはまばし商店街の路地を少し入ったところにたたずむ、喫茶店・樹林(きりん)だ。

そしてその樹林の一番の名物は、ふかふかのトーストが食べられるワンコインのモーニング、香り深いコーヒーもいいけども。
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三吉の昼の部前に立ち寄ったときにはこのモーニング!


私が思うに、いや私だけじゃない、大衆演劇ファンみんなが思うに、それは店主のマスターその人である。

お店のドアを開けると、毎日、「いらっしゃ~い」というやわらかな声と優しい笑顔のマスターが出迎えてくれる。

店内は、その月に乗ってる劇団の大入り袋と、古いところだと90年代初期のものもある大衆演劇専門誌、そして今日の舞台の話題で溢れている。

マスターは、そんなお客さんたちのおしゃべりに「そうかぁ、そんな良かったかぁ」と相づちを打ったり、かと思えば真剣な表情で水出しコーヒーとにらめっこしていたり。


私が好きな樹林の光景のひとつに、「お客さんのお運び」がある。

三吉の昼の部が始まる前や、昼の部と夜の部の間になると、店内が一気に混みだし、マスターが忙しくなる。
すると、カウンターに座ってるお客さんが「あ、私運ぶよ」とテーブル席に注文の品を持っていく。あるいは、テーブル席のお客さんが、「ああ、マスター大丈夫、持ってくから」と席を立つこともある。自主的ウェイトレスだ。

かつて私が自主的ウェイトレスデビューを果たしたとき、カップの中身をこぼさないよう気をつけながらも、おお!  あのお運びしてる!  と、樹林の一員になれたような、不思議な晴れがましさがあった。

そして、そんな光景が生まれるのも、みんなマスターが、あの空間が好きだったからだと思う。

三吉演芸場という劇場は、料金も少し高めで、整備が整った小綺麗な劇場だ。
そんなアッパーな劇場に代わり、大衆演劇ならではの「慕わしさ」を担っているのが樹林だった。


あるとき、勤め先の媒体に樹林の記事を載せる機会があり、マスターに長時間インタビューをお願いしたことがある。

マスターは生まれも育ちもこのあたりで、少年の頃はまだ赤線地帯だった名残があり、後朝の別れをするおねえさんとお客さんという光景を、なんだろう?  と思いながら見ていたこと。

家業である商店街内の洋品店を継ぎ、でもある日今のこの土地が売り出しに出ていて、ここでなにかしたい!  というひらめきひとつで樹林がスタートしたこと。

最初は自分はもとの仕事をして、樹林は妻・栄子さんが切り盛りをしていたけど、栄子さんが体調崩されたことをきっかけに自分があとを引き継いだ、実は二代目マスターであること。

それまで料理なんて作ったことなかったけど、入院している栄子さんの代わりに50歳の手習いで覚えた料理が楽しくなり、いつの間にかどんどんレパートリーが増えて、そこからメニューにごはん類も加わったこと。

ときどき劇場に観にいくと、顔なじみの役者さんたちがマスターを見つけた途端、ショーで『三吉橋界隈』を踊るので、嬉しいけどお花をつけなきゃいけないのがなかなか大変なこと(笑)。


そのほかいろんな話を聞いた。

売り出し中の土地をとりあえず買って、なにをしようかな?  と考えてたときの話で、「在庫のない商売をしたい」というリアルな言葉が出てきたときに、ああ、根っからの「あきない」の人なんだなぁ、と実感したりもした。

マスターの話が楽しくて、気づけば2時間以上たっていたそのとき、マスターの幼なじみで商売仲間、商店街にあるお蕎麦屋さん「安楽」のご主人が入ってきた。

ご主人は、十数年毎朝、出勤前にコーヒーを飲みにくる、常連中の常連だ。

インタビューと聞いて、からかい顔のご主人も加わり3人でワイワイ話してるなか、ご主人がコーヒーをすすりだから、マスターに聞こえるか聞こえないかの小さな声でこう言った。


「なんていうか、好きなんだよね、この男が。ホッとする」


ご主人の照れくさそうな口もと、ポソポソとした声音、そして、みんなみんなマスターに会いたくて樹林に来ているという思いがつまった名台詞だった。


もうひとつ、このインタビュー中に名台詞が聞けた。

三吉の従業員だった常連さんの存在がきっかけとなり、徐々にお芝居客が増えていった樹林。

そこで私は、でも逆に、お芝居のお客さんに占拠されてしまって、お芝居に興味のないお客さんは居づらいこともあるのでは?  というちょっと聞きにくい質問をしてしまった。

するとマスターは、もちろんそういう人もいたけど、でも自分自身が、お客さんが楽しかったお芝居の感想を聞くのが好きだからなぁ、そういう店があってもいいんじゃないかなぁって、と言ったあと、よりいっそう顔をほころばせながら、パン!  と手を合わせて、


「だから、第四幕はここでやりましょう、と!」


そうなのかもしれない。

良い舞台を観終わったあと、同行の友人たちと、あのシーンのここがよかった、この舞踊がよかったとワイワイ話すあの時間は、まだ舞台とひと続き、観客である私たちがそれぞれの台詞を持ち寄る第四幕なのかもしれない。



1983年7月、開場。
そして今日、2019年10月29日、樹林は36年の歴史に幕を下ろした。

閉店時間の19時になっても店内は常連さんでにぎわい、マスターにこれまでのお礼とプレゼントを渡す人もいた。
「こんなに幸せでいいのかねぇ」と目を細めるマスターの姿を見て、妻・栄子さんは「本当に『人』が好きな人だからね、仕事やめたらどうなっちゃうのかしら」とほほえんでいた。
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閉店を聞きつけたいろんなお客さんから贈られた本物の「お花」に埋め尽くされた店内とマスター。



樹林はまさしく、阪東橋にあるもうひとつの劇場だった。

そしてその舞台に立っていたのは、私たち観客と、小屋主兼、誰からも愛される大人気の座長・マスターこと田中常介さんだった。
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光の源――橘光鷹さんのこと

自分にとって、役者さんというのは「出会っている」人と「まだ出会っていない」人の2種類がある。

この「出会い」は物理的な意味とはちょっと違う。
役に、その人が演じる「ならでは」の輪郭がはっきりと見えたとき、それが私にとっては真にその役者さんと「出会った」瞬間だ。

そういう意味で、橘光鷹さんは、私にとって、ものすごく「出会っている」人だった。
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光鷹さんの舞台ぶりはよく「癒し」と形容される。舞台から離れているとき、お出迎えでも送り出しでも、あのやわらかな雰囲気は消えない。きっと生来の持ち味なんだろう。


見るからにいろんな欲が渦巻く役者の世界。キラキラギラギラしたそのなかで、光鷹さんの春の陽だまりみたいな佇まいは、逆に目を引いた。

そしてその雰囲気は、「光鷹さんならでは」の役々の素(もと)だった。


『血染めの纏』――かつて全盛を誇っため組が音を立てて凋落していくなか、必死に一家を支える市松。
敵討ちはしない、命が惜しいとのたまう小頭の六蔵をいよいよ見限った市松は、その憧れの人の背中を蹴る。「なんでいっ…!」と涙混じりに足を上げる市松の体からは、その行為とは裏腹に「こんなことしたくない!」という叫びがもれていた。今、誰より痛みを負っているのは六蔵ではなく市松なんだと痛感した。
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『留と棟梁』――棟梁の妹・お玉。彼女の婿候補を審査するため、アホの留に一芝居打たせようと提案した兄の棟梁に対し、そんなのうまくいくかしら?という気持ちでのひと言、「留ちゃん、ばかなんだよ?」。
「ばか」という侮蔑感の強い言葉なのに、光鷹さんのお玉の声音にはちっともキツい風情がない。その「ばか」には、「劣っているからできない」ではなく、「そういう個性の子だからできるかな?」という、留に対しての差別のない、まっすぐな思いが浮かぶ。そしてそのあまりにストレートな言いっぷりがおかしくて、このシーンになるといつも声を立てて笑ってしまった。
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『泣くな!くまちゃん』――眠れないー!と駄々をこねるくまちゃんに、「しょうがねぇなぁ」と言いながら子守唄を歌う友だち。光鷹さんが、くまちゃんのお布団をポンポンと軽く叩きながら歌を歌うと、あの暗がりのボロ屋に圧倒的な幸福感が満ちた。
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『河内十人斬り』の寅、『ふるさとの友――三人の行く末(三人出世)』の島吉、どっちもこすい奴だけど、光鷹さんが演じると一滴そこに「でも芯から悪いやつじゃない」という感触が混じる。
いつだかの『十人斬り』の送り出しで、「あんたぁ殺されなくてよかったねぇ」とお客さんに声をかけられている姿を見たが、こちらの憎しみをゆるめてくれるような敵役、これも光鷹さんならではだ。
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『花の兄弟お伊勢参り』――はっちゃけぶりが目に鮮やかだったLGBTなおさよ。死装束でのスリラーに涙が出るくらい笑った。しかも、それだけはっちゃけても、もともと備わった品があるのでやりすぎ感がない。
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そして、光鷹さんといえば、本格修業をしたことで磨かれた歌声。
特に私は、のびやかさと慈愛に満ちた『手のひらの愛』が好きだった。
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と、思い出したらきりがないが、私がこの人の「癒し」の源を見た気がしたのは、今年のこと。

芝居で、炎鷹さんがそのとき舞台には出ていなかった光鷹さんの舞踊の真似をして、その振りをいじった。
客席には笑いが起こったが、座長という圧倒的権力者が座員の真剣さをネタにするのは存外難しい。もちろん炎鷹さんとしては場を盛り上げようとしてのことだとはわかっていたが、私はなんとなく笑いきれないものがあって、正直少しモヤモヤした。

けれど、その気持ちを救ってくれたのは、その場にはいなかった当の光鷹さんだった。
舞踊ショー、光鷹さんの個人。曲が中盤に差しかかったとき、彼は、その芝居中に座長がからかって真似をした独自の振りをもっとオーバーな所作にして踊り、そしてニッコリと笑った。客席は了解したように、わぁっ!と湧いた。

ああ――この人は大人なんだ。

舞台に出てきたトゲを大きく包み込んで、空間ごとやわらかくする。これは、自分の思いばかりを優先してしまう子どものそれではない、大人の精神だ。

いじられたりからかわれたり、炎鷹さんとも歳が近い光鷹さんはその役目を負うことが多い。
でも、そのいじりが、親しさゆえにかときにちょっといきすぎなんじゃないかとこちらの気持ちが少し曇るとき、光鷹さんはふんわりとほほえんで、声なき声でいつもこう言ってくれてたように思う。

「大丈夫」

実際、彼がどんな思いでそれを受け止めているかはわからない。わからないけど、少なくとも観客席にいる私は何度も、無言の「大丈夫」に救われた。そして、この笑いながら「大丈夫」といえる強さ、包容力こそ、光鷹さんから醸し出される癒しの源泉なのではないだろうか。
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観客は、舞台を、劇団を愛するあまり、そこに立つ人々が永遠に変わらずいてくれることをおのずと望んでしまう。
けれど、当たり前のことだが、彼らは役者であると同時にひとりの人間で、そこには一人ひとりの人生がある。だから、それぞれの選択に、それがどんな道であろうと、一観客である私たちはただただうなずくしかない。

でも、でも、やっぱり寂しい。

そのわりきれない気持ちのなかで、こんなことを思う。

もし、私の心のなかに、素敵な舞台の思い出をそっとひとつずつしまっておく小部屋があったとしたら。
その一室は確実に、光鷹さんのあの役々や歌声からもらった優しい光に満たされている。

そしてその光は、いつまでもいつまでも、 あたたかなままだ。
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愛に出逢い   愛を信じ   愛にやぶれて
愛を憎み 愛で赦し また愛を知る

風に吹かれ   迷いゆれて   生きるこの道
あなたの笑顔   それは道標

――光鷹さんの千穐楽舞踊のひとつでもあった、クリス・ハート『道標』より